日々雑感
たいした問題ではないが、今回から「お気に入りブログ」をトップ・ページからハズすことにした。当初は、横方向のスクロール・ボックスの線が出てしまうことが不快だという理由だったが、これはどうしても消せないと一度あきらめた。私のブログは今後、相棒のブログを利用して、介護世界への疑問や懐疑をつづる予定もあり、相棒のブログを「お気に入りブログ」の欄から追跡されることをいくらか避けるためとの理由に変わった。今のところは公表出来ないが、いずれ母を介護した数年間をさかのぼって、あれこれ書くことが見込まれるので、このブログパーツ設定変更となった。なお、介護世界への疑問をつづる日記は一回分既にほぼ下書きを完了している。今さら書くまでもなく、私は「不安神経症」という脳機能障害を抱える者で、介護職の者たちにも、その目で見られているのが事実だ。これは被害妄想の類ではなく、「息子さんも病気があるから・・・」と直接告げられたことがある。この病を私は昭和53年春から秋にかけての半年のあいだに一旦自力克服して、それが正味10年におよぶ学習塾経営維持につながったのだが、平成7年に兄が病死してから一年余りのあいだに相当悪化して再発して入院、2週間足らずでとりあえず回復・退院、塾再開出来たものの、以来、未だにただ一種類の神経薬との縁を断ち切れないままだ。思えば昭和46年、正真正銘の精神病院にわらにもすがる思いで入院してからも、院長が病名を特定しないまま、2ケ月弱で退院という、多分かなり早い回復ぶりだったが、普通の疾病には「頚椎ヘルニア」などとハッキリした病名がつくのに対して、遂にこの病院では告げられぬままだったので、己の精神疾患への疑問がやや残った。ただ、退院間近の最後の診察の時、院長がいつもと違う様子だと気づいた記憶がある。今では私はこのときの院長にある種の共感を持っているのだが、以下のようなことを話してくれた気がする。「これから再び俗世間に出ると、いろいろ大変なこともふりかかるでしょうが、この私自身、常に考え悩んでいます。物事の、特に私の生業(なりわい)を考えることが多くなるのが当然なのでしょうけど、人の精神、考えに対して、その是非の判断をくだすのは、とても困難なことです」院長の話は、妙な言い方をするなら、いつになく神妙な感じに聞こえた。院長は言葉を選びながら話を続けたように記憶する。再び院長の話である。「人の精神の世界を日々考えてゆくと、ついには私でさえ、現在の治療のやり方に疑問を持つようになります。現在認められている薬物治療、あるいは凶暴性を発揮する患者の昂ぶった感情をほんの一時的に鎮める方法としての電気ショック療法などに対してです。もちろん電気ショックなどは、君のような患者には全く無縁のかなり過激な方法です。最後の診察に際して、初めて告げますが、君は正常です」この時初めて「正常」という、当時としてはかなり安堵する言葉を聞いたが、今となっては、己の精神の正常を強調したい考えは弱くなった。人は、健常者でさえ、その内面に狂気を擁する存在と、ようやく納得したからだ。要は社会適応の可否であり、とりあえず正常とみなすのは、やはり世間である。そして院長は結論を出そうとしていた。以下さらにその時の記憶を頼って院長の言葉を引用する。「君は精神の平安を求めて行き詰まりかかったりしたら、その先を受け継ぐ助け舟として、一種の信仰を探るような気持ちになるかも知れない。それとも反感をかったかな。最後の診察でこのようなことをいきなり告げられて、驚きましたか ? 」私は診察を受ける立場にあったし、確かにいくらか驚きはしたが、院長の言葉を否定することは得策ではないとの駆け引きを思った。「いえ、神仏は尊ぶべしという考えを否定出来る人間はいないと思います」と、いくらか身をかわす思いで答えた。ここで院長は一冊の小冊子を私の前に差し出した。院長の机上の冊子に先刻気づいてはいたが、ここも素直なふうを装ってその冊子に目を落とした。「解脱(げだつ)1」という題名の冊子だったが、宗教雑誌なのかどうか、とっさに読み取ることは出来なかった。しかしながら、院長が経営する病院の医療とは全く異なる、何らかの新興宗教めいた組織の機関誌である可能性を直感し、その内容を「信仰にすがる者たちが手に取るものではないか」と推測した。当時の生意気な表現を使うなら、「この院長という人もまた、どこか病んでいるのか」と感じた。深山分け入ったところと言うにふさわしい病院建物この「上秦野(かみはたの)病院」は、私の退院後、長くは続かず、経営者と病院名が変わっている。さらにあとを引き継いだ病院では、患者虐待問題で裁判に発展、まもなくこの病院もなくなった。その後病院の建物施設はすべて取り壊され、現在は当時と同じ場所かどうかわからないが、地上・地下施設を有する全く別の病院が建ったようだ。現在のことは、もはや私には無縁の存在としか思えないし、わからない。ただ、病院名が「秦野病院」とネット検索にあったようなので、あるいは近接地への建設となったのかも知れない。私が上秦野病院に入院中、だいぶ高齢とおぼしき一人の老婦人が入院して来た。いや、入院させられて来たと言ったほうが適当かも知れない。毎日深夜、箸で茶碗をたたく音と共に、人を呼び続けるこのおばあさんの声が聞こえて、他の入院患者たちから「うるさくて眠れない」との苦情があっというまに起こった。まもなく、このおばあさんは「保護室」と呼ばれる、警察の鉄格子の留置場とほぼ同じつくりの部屋に入れられた。日ならずして、老婦人は保護室で息を引き取った。今考えると、ある種の認知症だったのではないか。未だに、認知症の老人が、家族の意思によって精神病院に入院させられる例が現実に存在すると何かで読んだ気がする。明治30年生まれの祖母が口癖のように「この世は苦のしゃばだよ」と言いながらも、家族の誰よりも早起きして、実の娘の母の家事をあれこれ手伝っていたことを思い出した。祖母は認知症とは無縁だったが、68の時、交通事故で世を去った。「若い頃の苦労は買ってでもせよ」との言葉があるらしいが、果たしてそうか。苦労は時に人を強く育てるものかも知れないが、その根性をねじ曲げもするはずだ。苦労人に二通りあると、亡きコラムの師・山本夏彦氏は書いている。つまり次の若手を思いやる者と若手をいじめる快を楽しむ者とに分かれると。祖母の人柄が他人の目にどう映ったか、定かではないが、母曰く、「我が家にはたいてい必ず居候がいた」。子供の養育が困難な親の生活を助けるべく、その子を住まわせて学校へ通わせたこともあった。だが、祖母を恩人と称え、感謝の念を示す人はほとんどおらず、最後は恨まれたとも母から聞いた。ただし、血は汚いとのたとえ通りかどうか、祖母は実の娘と私たち孫にはきわめて甘かった。祖母が世を去る何日か前のある日、母に説教のようなことを話していたのを覚えている。未だに祖母の考えがどういうものだったか、良くわからないが、祖母はこんな意味のことを言っていた。「子が親のふところに飛び込むんじゃなくて、親が子のふところに飛び込むくらいの気持ちで接してやるものだよ」これはもしかすると父へのあてつけの気持ちも込めていたかも知れない。職業生活の大半を陸軍士官・自衛官として過ごした父は、しつけを厳格にしたのではなく、始終気が昂ぶって怒鳴り散らし、母や私たちに手をあげてばかりいた。胎教というのが医学的に正しいのかどうかわからないが、勝手に作られて一人歩きした定義というものでもなかろう。昨年2011年冬、父死亡後の手続きに忙殺される日々が始まり続いたが、この手続きにより、母との婚姻・協議離婚・復縁という目まぐるしい経歴がややわかった。我が両親、つまり父母の最初の婚姻は、婿養子の形をとった。母との婚姻の届出は昭和24年7月初めとあるが、この6月中に兄が誕生しているから、出産直後に婚姻届をしたとみえる。所帯のない私には詳しいことはわからないが、昭和23年には事実婚となっており、母21で事実婚とみることで良かろうか。だが兄出産まもなく翌昭和25年には協議離婚しているから、まことにあわただしい限りで、家庭内はかなり荒れていたことが想像出来る。父は最初の離婚の前年、昭和24年3月25日の日付で、「子供を頼む」との主旨の手書きの便りを母に送っているから、この時既に別居していたと察しられる。兄の場合、胎教に良くない環境下で生まれたことになるが、赤ん坊の時期から幼児期、母はもちろんだが、実質、祖父母にそれこそ汚く可愛がられたから、父の不在がちな家庭環境は、幼い兄には決して悪くなかったとも言える。だが昭和29年に復縁し、かつ、父方の姓を名乗ることに変更しているから、父の家への出入りはかなりあったとみられる。この復縁前後の環境下で私が生まれ育った。私の神経症は、当時既に神経をすり減らす毎日だった母の胎内に悪影響を及ぼしたことが原因していると言えなくもない。とりとめない文章がまだまだ続きそうだから、ここで措(お)くが、父の「短気過ぎる」性格は、他人には余りわかってもらえないようだ。母は、娘時代、両親が大声で言い争うのを聞いたことがないとよく言っていた。祖母がやや活発で、祖父は温厚だったと私は察している。