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カテゴリ

2011.11.07
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カテゴリ:音楽
笑ったりしんみりしたりしながら楽しんだTVドラマ「だいこんの花」のシングル・レコードの話を中心にあれこれ書いて来たが、そろそろまとめてみる。

私はつい先日、このドラマのテーマ曲と竹脇無我自ら歌う甘い歌声の主題歌をもう一度聴きたいと思い、ネット通販で何んとか在庫のある1977年発売のシングル・レコードを買った。

だいこんの花

前の日記でナレーションの『・・こぼれ散り・・』にこだわったのはこの盤を買ったからだ。
レコード盤は、特に冨田勲のテーマ曲を文字通り堪能出来る構成に録音されているから、余りの懐かしさに涙を流しながら聴き入った。

もちろん竹脇無我のナレーションが初めに入るが、このレコード盤では『・・こぼれ散る・・』とハッキリ言っているのが特徴だ。テレビ放映のナレーションとは異なる。ただし、シリーズ途中からテレビのほうも『こぼれ散る』に変わったのなら、私の間違いだ。

二面ともA面と言いきっても良いレコード盤だ。
テーマ曲は、書いたように、以下のナレーションから始まる。
『人知れず忘れられた茎に咲き、人知れずこぼれ散る、細かな白いだいこんの花』

「堪能出来る」というのは、テーマ曲を二回繰り返すことだ。テレビ放映では言わばワンコーラスて終わってドラマに入るが、しコードでは、楽器の演奏のあと、全く同じメロディーを美しい女声スキャットを交えて演奏しているから、感動がさらに盛り上がる。もう少し正確に言うと、冒頭から女声スキャットが入り、続いて竹脇無我のナレーション、それから楽器による演奏が再び始まり、ワン・コーラスのあとに続けて女声スキャットが混ざるという順序だ。

さて、いよいよ竹脇無我の美声で歌う主題歌である。レコードを裏返して針をおろすと、今度はうって変わってアップテンポのモダンなイントロが始まり、歌が流れる。歌のメロディーは、冨田勲の曲にそのまま歌詞を乗せたものと言える。

少し横道にそれるが「YOU TUBE」はこのごろ余り好きでない。お気に入りに入れてしばらく聴かないでいて、しばらくぶりに聴こうとすると、著作権侵害とやらで削除されてばかりだ。

洋楽の「ABBA」の「ダンシング・クイーン」を長くお気に入りに入れておき、先日久しぶりに聴こうとしたら、削除になっていた。録音技術のある人はいち早く取り込んでいつまでも楽しめるだろうからうらやましい。

さて、「だいこんの花」も今のところは、いろいろ掲載されているだろうが、この運命も怪しい。
そして何より竹脇無我の主題歌がさがした限りでは見当たらない。

冨田勲の世界にうっとり聴きほれるにはテーマ曲だけのほうが良いが、竹脇無我の主題歌の味わいは、美声はもちろんだが、何んと言ってもさわやかでかつ、しみじみしたその歌詞にある。

私は楽天ブログの著作権なぞ知らないから、忠告でもないあいだは、二番まで全部掲載する。
以下の歌詞である。

♪ 1 .春の日に咲いている、ひそやかな白い花、だれも目をとめないけど、美しく咲いている、いまは亡いかあさんの、やさしさによく似てる

あのころはなにも知らず、生きていたぼくだけど、いまもなおその愛に、
つつまれて生きている


2 . 菜の花のかげに咲く、ひそやかな白い花、だれもほめないけれども、美しく咲いている、いまは亡いかあさんの、その姿思い出す

子どもらのかげひなたに、生きていたその姿、いまもなお鮮やかに、この胸に生きている
(間奏)
あのころはなにも知らず、生きていたぼくだけど、いまもなおその愛に、つつまれて生きている


以上、主題歌の二番までの全歌詞である。
独り、ヘタな歌で歌う時、この軽快なメロディーを、冨田勲のテーマ曲のようにゆっくりと、さらに曲のリズムもそれに合わせて歌うと、また格別の味わいに、自ら感動してしまうのである。
テーマ曲も、幸い半音がないから、ハーモニカで吹いて楽しむことも出来る。

ふと思い出すと、かつて数々のドラマを楽しんだ記憶が、懐かしい場面と共に次々よみがえるが、それらのドラマの中で、全く危なげない、見事な演技で楽しませてくれた俳優・タレントの多くが既にこの世にいないという寂しさも、同時によみがえって、懐旧の情とはつくづく哀愁を伴うものだということもわかる。

「だいこんの花」一つ思い出してみても、元海軍大佐で巡洋艦「日高」艦長だった永山忠臣(ながやま・ただおみ)を演じた森繁久彌、その息子役として余人を候補に考えられないほど、ピタリ息の合った永山誠(ながやま・まこと)を演じた竹脇無我、例を第2シリーズにとってさらに思い出すと、巡洋艦と同じ屋号をつけた料亭「日高」を経営する元部下の相馬京太郎(そうま・きょうたろう)役の大坂志郎、彼の一人娘・相馬麻子(そうま・あさこ)役の武原英子(たけはら・えいこ)、同じく元部下が経営する銭湯の長女・石川高子(いしかわ・たかこ)役の名女優・大原麗子(おおはら・れいこ)など、すぐ思いつくだけでも、これら映画・テレビに活躍した優れた俳優たちが、既に鬼籍に入っている。

なお、料亭「日高」の主人をよく助けてドラマ中、ついに表に出ぬ脇役に終始した板前の善さんこと善吉(ぜんきち)役の服部哲治の、素直で明るい印象も忘れられない。名前の正確な読み方がわからないが、この人も、既に亡くなっている。

この第2シリーズは、誠と杏子の出会いから結婚までが抜群に面白く、そのあとあたりから、まるで森繁が「ホンワカホンワカ、パパパー」と歌っているかのような関西喜劇風のBGMが鼻について来て、面白さ半減する。

だがドラマ全26話を通して、物語自体は誠と杏子のさわやかな恋愛談にしぼられるばかりではなく、川崎敬三(かわさき・けいぞう)演ずる杏子の兄・高柳啓一(たかやなぎ・けいいち)と大原麗子演ずる高子とのコミカルな恋愛劇も二人のベテラン俳優によって、物語に見事に溶け込んで、いったいこのように楽しく見られるドラマは、なぜ今は見られなくなったのかと、残念でならない。

多分、娯楽も私の時代ではなくなったのだろう。昭和の雰囲気のある人間を「昭和くさい」と言うらしいが、私見によれば、私にとって娯楽、特にTVドラマがつまらなくなったのは、「平成」の時代に入ってからである。
美しい女性を美人といい、ハンサムな男性を美男子というが、竹脇無我のファンになった婦人の中には、「何んて美しい顔の俳優だろう」とうっとりしたという人も少なくないらしい。

翻って、今顔立ちの良い男を「イケメン」と呼び、そう評価されるタレントが映画・テレビの主役をやっているようだが、私の目にはいずれもホスト・クラブから出て来たような顔にしか見えない。私のようなブ男でないのは確かだが、決して容貌の整った美男子ばかりではない。
そのタレントたちが演ずる現代のドラマとなれば、内容も異なって来るのも当然だろう。

ともかく私はテレビというものを全く見なくなった。
新式の電波方式に合わせた薄型テレビも、とりあえず設置してあるが、壁に吸い付くように置かれたテレビは、地元の天気予報の画面を出す時、リモコン操作してつけるだけだ。ボリュームはほとんど絞って聞こえなくしてある。

なお蛇足だが、ガンで訪れる死を待つばかりの俳優・入川保則(いりかわ・やすのり)氏は、若者に対するメッセージとして、「人間として生まれたら、もうだめだと思え。どうせそのあとは苦労ばかりで、それを背負って生きると、苦労が楽しみに変わる。そうやって50年も生きたら、大威張りであの世へ行ける」と言っている。

亡き祖母も苦労した人間だったが、口癖のように「この世は苦の娑婆(しゃば)だよ」と言っていた。
母がまだずっと元気だった頃、これも口癖のように「今夜寝て、そのまま明日になっても眠ったままで起きないといいんだけどね・・・」とよく言っていた。

かく言う私も、神経症を抱えて生きて来たような人生だから、とうに厭世主義者である。体調不良になっても、臓器のどこかが悪いのか、生来の神経症なのか、区別がつかない。
なまじ、ある程度の知性を持つ人間に生まれたのが運のつきである。

今回の体調不良が持病の神経症再発ならば、前途への気力ある限り、大学入学時の発病以来、三たびの再発となるから、あるいは回復の見込みもないとは言えないが、それまでがなかなか苦しいものではある。二度の神経症から救ってくれた母には、もはや甘えられない現状となった。

介護職の人々に相当助けられているが、所詮、唯一の介護家族たる私が体調をあるレベルに保たなければ、いずれ何も母を支えられない状況となる。
神経症は誰でもなるおそれがあるというのは、ある意味で正しいかも知れないが、克服に必ずしも医家を必要としない強い人がいるのも事実だ。

かつて『マカロニほうれん荘』という異色のギャグ漫画で週刊誌「少年チャンピオン」に活躍した鴨川つばめ氏は、売らんかなの編集側の非情・無情に嫌気がさし、突然の連載終了を断行した。

その後、心身共にコワレた状態に陥ったが、元来病院嫌いで、しかも強い心身を持っていたがゆえに、自力で回復し、平成8年現在では、一時執筆の机に向かうのも苦痛だった漫画創作の世界に復帰しているという。
平成23年現在の様子はわからないが、たとえば貸本漫画の世界に活躍したのち、すっかり筆を折ってなお、2009年、満75歳で亡くなるまで、自活して生き続けた徳南晴一郎氏(とくなん・せいいちろう、またはとくなみ・せいいちろう。幼児期の大病のため身長わずか140cmで成長がとまる)の、恐らく凄絶な生き方もある。

人間、生まれた以上、衰え死するまで、何らかの方法で生きねばならない。
改めて私にはこの世は生きるに値しないところである。
何を書きたいのか定まらない妙な文章だが、それが私の現在の混迷を象徴しているのかも知れない。
竹脇無我氏も凄絶なウツ病を8年間患い、糖尿病・高血圧を抱えたまま、劇的生涯を終えた。





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最終更新日  2020.10.19 20:40:39
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