「大一プロブック」廃刊の経緯
私の楽天日記のタイトルは、「特撮機関誌大一プロブックHP」である。ところが本誌その他をつづって更新したことは、余りない。元々、趣味分野が「特撮」なので、それよりほかのテーマのほうが見つかりやすく、書きやすいことも原因かも知れない。だが、もう一つ、拙誌「大一プロブック」は第95号を以て廃刊した事実が大きく原因しているとも思われる。つまり読者が快く受け取り、全ページでなくとも、拾い読みしていくらか楽しんでくれれば本望だったのである。無償配布は、私の勝手な行為だから、読み手への強圧的な誌面文章への賛同・共感を求めるのは筋違いとの心得もあった。だが私の愛国心を文章にすることは私の自由である。私は共感を求める文章は書いていない。私は最初から全10部無償配布の形で始めたわけではない。当時、フィルム装てんタイプのマニア向けの8mm映画が、そろそろビデオカメラに駆逐される時代に差しかかっていた。私たちマニアが「8mm」と呼ぶとき、それは1巻3分20秒のきわめて短い撮影時間制限のあるフィルム装てん式のカメラ、映写機のことをさす。この1巻を現像に出して、出来上がったフィルムを映写機にセットして見てみても、3分余り見ると、すぐに映画は終わってしまう。全く趣味領域を一歩も出ない代物を楽しんだのである。風景などを巧みに写して、芸術映画のような作品に完成して上映して楽しんだ当時の年配の人々もおおぜいいた。しかしながら、私は高校時代までは8mm機材の類いは一つも買わず、大学に入れたら映画を作ろうと決めていた。何んとか合格したものの、神経症を発症して、大学のスタートが遅れた。だが、8mm映画への執念はいよいよ強くなり、風景の映画ではない、マニアの映画を目指した。実は高校入学直後から、この8mm特撮映画制作の計画は始まっていた。中には高校時代から機材をそろえて、8mm特撮映画に取り組んだ者がいたが、私の意見では、これは高校生失格である。ただし、高校卒業後、社会人の道へ進んだ人は別である。高校時代から8mm特撮映画にうつつを抜かせば、学力は必ず落ちる。そういう者どもが何人もいることをのちに知った。その一人が、私の「大一プロブック」を廃刊に追い込んだ男であった。大学はたいしたことのない愛知学院大の歯学部だが、歯医者になってしまえば、仕事は多分成功したのであろう。ただし、この手の二流・三流私立大学に進んだ者には、仮にも国立大学理系に進んだ私への屈折した劣等感があった。それでいて、いっぱし、理系大学を出たのだと言わぬばかりのインテリ意識がちらついた。本物の学力発揮とは言えぬ小学校時代の自慢話をするようになった。全6学年のあいだ、作文コンクールで必ず賞を取ったという程度の自慢話である。私の文章も素人に毛がはえた程度の拙いものではあるが、内心、私はこの男より私のほうが筆が立つと自負していた。独断ゆえ、いずれが優るかわからないと言われるかも知れぬが、長年文章を趣味として来ると、己れの文章力と相手のそれとを比較出来る。昭和57年(1982)11月25日完成の本格的B5判の本誌表紙。ラドンは拙いながらペン画である。さて、拙誌「大一プロブック」は、もはや8mm特撮映画には限界があると判断し、制作をあきらめる代わりに、特撮への思いを別の形で表わそうと考えて、私が原稿・製本を始めた機関誌である。ただし、先に書いた通り、最初から10部無償発行したのではない。この男との交流がまあまあのムードの頃は、私のぶんを含めて、2,3部くらいしか発行していなかった。機関誌と言っても、自分で勝手に発行するものだから、経費は自弁である。ところがこの男からある時を境に、次第に増刷を依頼され、またたくまに10部発行になったのだ。交流がある程度良好なうちは、お互い上っ面だけ敬意を示し合ったが、私はカンが働いて、この男の屈折したコンプレックスやインテリ意識が、今にアダとなって返って来ると予感していた。私が8mm特撮映画をあきらめた原因は、怪獣などによる建造物破壊シーンの再現に、当時の最高級のカメラの高速度撮影を以てしても、完成映像は、チャチにしか見えないと結論したからである。この男が制作した海底軍艦のアマチュア版の映像中、轟天号が特撮プールの海に空中から着水潜航するシーンを見て、「限界だ」と評価した。この男にはグループを作り、仲間のスタッフを統括する才能はあった。だが、せいぜい数メートル四方の8mm映画レベルの高速度撮影如きでは、海に見立てたプールでは水がポチャンとハネを上げる程度にしか見えず、内心、よくまあ飽きもせずに作るものだとあきれていた。本人も不満があったのか、この男の8mm特撮映画は、エスカレートした。つまり4倍高速度カメラの破壊撮影では迫力ある映像は困難とさすがに判断したのか、事実上の最終作となった大魔神の8mm版制作の時は、プロが作るミニチュアと同じ縮尺の巨大なセットを作るに至った。私は本誌上では最高傑作と絶賛したが、これには一つのエピソードがある。兄がまだ健康な頃、出張の帰り、旧宅の我が家を訪れた。人心地ついた兄が、「特撮はどんな具合だ」と尋ねたので、「お兄ちゃん、8mmはもう製造中止がそこまで見えているほど、衰退したし、高速度撮影がわずか4倍では、作るだけ無駄だよ。ただし、交流相手の高度な技術のラッシュ・フィルムがあるけど・・」と答えると「ちょっと見せてくれ」と兄は機嫌よく言葉を返した。確かにミニチュアのスケールをプロ並みに大きく作れば、高速度撮影4倍だと、必要十分な破壊の迫力映像を生む。ところが、ビデオにダビングされたラッシュ映像を見ている兄の顔つきがみるみる険しくなった・兄「ひろ、なかなかの出来だけどな、これだけ作るには、費用がかからないか ? 」見事な指摘だった。相手の男は、最低800万円出費したと豪語した。これを兄に話したとたん、「もう消せ ! たかが8mmの特撮で、新築の家一軒建つような制作費をかけるのは、もはや趣味とは言えない。全くふざけてる。お前どう思う。いや、お前も地球空洞説の映画作り始めたって言ったな。いくらの予算だ ? 」私「まだ作り初めだけど、俺は概算で、常に10万円以内を予定している」兄「それくらいなら、年月かけて完成するまでには、月々いくらの出費もないな。お前の見解はまともだ。俺は腹が立った」さて、いっぽう、私は自主制作に見切りをつけ、機関誌発行に、映画作り以上の楽しみを見い出して、号を重ねるごとに、生活の張り合いが増していった。この機関誌は、いわゆる「袋とじ」という一番簡便な形で作った。本来、学習塾用にそろえた機械であるが、トナーと呼ばれるインク代が大幅に値下がりした新コピー機を塾用に購入したおかげで、インク代も生計をおびやかすことのない出費にまで節約出来るようになり、「大一プロブック」制作が私の新たな特撮趣味となった。もう一度書く。アマチュア特撮映画に800万円かけるまでエスカレートして、何も反省・後悔しないのはもはや常軌を逸している。この男の話がいくらか偽りだとしても、500万円を上回るだけでも、アマチュア趣味の領域ではない。ここであえて別のグループのアマチュア特撮作品を引き合いに出す。冒険SF大作「NOVA」である。私の記憶に間違いなければ、この比類なき傑作は、昭和5,60年代に、8mm機器の性能の限界などが壁となり、一時オクラとなって眠っていた。そして、アマチュア制作者の世界にまで、CG特撮という「ジュラシックパーク」を嚆矢(こうし)とする革命的特撮技術が及んだことにより、破壊などの特撮シーンは、8mm機材では不可能だった迫力映像を作ることが可能になった頃、驚嘆すべき特撮映像を実現して、遂に完成度の高い特撮映画として、制作再開、完成している。これこそ、アマチュアの分際をわきまえた人々の熱意を結集した、文句なき自主制作映画である。さて、話を戻す。拙誌「大一プロブック」は、最盛期の本誌平均ページ数が優に100ページを越えることが当たり前となった。しかも、自慢めいて聞こえるかも知れぬが、誌面に印刷された連載ものは、テーマを使い分け、文面自体は私の拙い文章羅列を免れぬながらも、特撮映画回顧のテーマ・少年ロケット小説・未確認動物談・心霊談・8mm特撮テーマと、多方面を扱い、さらにほとんど毎号特撮映画特集を写真つきで組み、たった一人で、よくぞここまで作ったものだと自画自賛したものである。そして、もはや不愉快な記憶を残す、我が当時、最も力を入れてつづったテーマが、この男の特撮映画制作の歴史を巨細にまとめた「甲藤(かっとう)プロ全史」である。私は、読むだけでなく、いっそ原稿の形にしてくれたらとも思ったが、この男は、歴代作品の制作過程を、淡々とつづっただけの資料を郵送して来た。分際を忘れた大がかりな特撮作品には血道を上げても、自ら寄稿する意志はなかったと断ずる。この男のグループに、一人の反日思想の女がいて、向こうっ気が強く、たびたび私に宛てた手紙には、攻撃的と断言出来る批判文章が書かれていた。「大一プロブック」廃刊の直接原因は、この反日女である。なお、本文中、絶交した相手の男の実名を名字のみ記した。文句があったら言って来い。受けて立つ。─つづく─