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ヴィーテ・イタリア高岡(Hiruccio)のイタリアワイン&主夫日記

ヴィーテ・イタリア高岡(Hiruccio)のイタリアワイン&主夫日記

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2009/05/21
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カテゴリ:映画と読書
第八章「バビロニア捕囚」からの抜粋です。
ルネッサンスの幕開けの時代の教皇庁を巡る時代が描かれます。

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1305年、カトリック教皇庁はローマから南仏アヴィニョンに移った。
ローマは治安も風紀も乱れきっている、こう言って時の教皇クレメンス
五世は移転を正当化した。

全くその通りだったが、アヴィニョンの方がましだということにはならない。
教皇庁がおかれればどこでも、教会を意のままに動かそうとか、都合
よく利用しようとか考える狼のような連中がたちまち群がり、徒党を
組んでいがみ合い、暴力、財力、知力のありたけを傾けて争い合う
のが常だったからである。

事実は、クレメンスも枢機卿も多くのフランス人で、自国の王の意志
抗し得なかったまでだ。

(略)

小心翼々と苦悩し続けたクレメンスの後を継いだのは、事業家肌の
ヨハネス二十二世で、カトリック教会を一大会社と見なしていたが
その限りにおいてはなかなかの名社長だったといえる。

かれの代に、教皇庁の金庫にはうなるほどの金がたまった。しかし
宗教人ないし神学者としては、いささか光彩に欠ける。

(略)

ヨハネス二十二世は、教皇庁の財政を豊かにするために高位
聖職を競売したから、教会の風紀はひどく乱れた。つぎの教皇ベネディク
トゥス十二世はこの弊風を一掃しようと決意、陰の実力者封じ込め
と賄賂根絶の闘争を敢行したから、はなはだ不人気で、1342年、
まだそれほどの年でもないのに逝去すると、悪弊に馴染んでいた高僧
たちは安堵の吐息をつき、今度は袖の下と派閥尊重の古き良き
習慣を守る人を教皇に選出しようということで、異議なく一致した。

こうして選ばれたクレメンス六世は生まれも育ちもフランスの大貴族で
教皇になったからといって殿様ふうの豪奢な生活を捨てる気はないと
うそぶく。

(略)

こうして派手に使ったから、せっかくヨハネスが一杯にした教皇庁の金庫
もすっかり乾上がり、新たに租税措置を講じなければならなくなったが
見通しは暗かった。

アヴィニョン移転以来、イタリアからの税収はほとんど無に近くなって
いたが、こんなに遠くなっては、うまい手段も見当たらない。

フランスとイギリスは百年戦争という死闘に突入しており、戦費にすべてを
かき集め、聖職者にはなくための目しか残さない。ドイツの聖職者は
フランス語でしゃべる教皇庁に敵意すら感じている。

こんな状況の中で、前教皇も前々教皇も、すでに打てる手はすべて
打っていた。





教会を否定し、純粋な復員の源に帰ろうとする反逆の叫びは、かつて
絶えたことがなかった。とくにここ二百年のあいだには、カタリ派、ワルド派
バタリン派の異端運動となって爆発している。

これを弾圧するために異端審問所が設けられたが、どんな迫害もこの
反逆を根絶することはできなかった。

拷問、火刑、虐殺によって破壊できるのは組織のみ、思想は生き残り
死灰の下に息づいていた。




カトリック教会は今度もまた、異端から身を守るために、聖者を見出す。
教会が深刻な危機に見舞われたときはいつもそうで、聖フランチェスコ、
聖ドメニコ、聖トマスが登場したのも、ワルド派、カタリ派、バタリン派
の異端運動が燃え盛っていた時期であった。

決して偶然の一致ではない。聖者と異端者とは共通の苦悩から発想
し、共通の希望を体現しているから、聖者はごりごりの正統派より
はるかに異端者に良く似ているのである。

シエナのカテリーナは、紙一重の差で異端者マルゲリータの運命を免れ
聖者に列せられた。

イタリアでももっとも中性的な町シエナは、古い城壁に囲まれて、永久に
変わらぬ姿をもっている。(略)どんな芸術家も指一本触れられなかった
ほど絶対の美だ。

疑うものは市庁舎のカンポの広場を見よ。その周囲に立ち並ぶ古雅な
館を、蒼空にそそり立つマンジアの塔を見よ。これは単なる中央広場
ではない。

一つの宇宙、一つの文明だ。そしsてここでは、数百年前に時間が
止まっている。聖女カテリーナが生まれた頃、この町には、神秘主義と
熱狂にどっぷり使った宗教精神がまだ生きていた。


聖女の盛名はシエナの外にも広まった。モンテプルチャーノは自市の党派
闘争をおさめるために彼女を招き、ピサとルッカもたびたび意見を聞きに
来た。

フィレンツェはアヴィニョンへの使節行を依頼した。カテリーナはこの依頼に
応じてアヴィニョンの土を踏んだが、たちまち嫌悪と絶望に襲われ、教皇
グレゴリウス十一世に向って教皇庁の腐敗堕落をはげしく非難した。

「ここは地獄の臭いがいたします!」心激するままに彼女は叫んだ。

居合わせた枢機卿は、この不敬な女を逮捕せよと迫ったが、教皇は
かれらより賢かったから、カテリーナを咎めなかった。

(略)

シエナの自分の部屋に戻ったカテリーナは、情熱と絶望に満ちた手紙を
つぎつぎと発表して、宗教界を揺るがせる。読み書きができなかったから
口述筆記だったが、単純素朴な言葉を連ねたその手紙には、どんなに
鈍い読者にも尊敬と悔悟の気を起こさせるほど、激しい信仰の火が
燃えていた。

その情熱的な訴えの文章には、「宗教改革(リフォルマ)」という予言的な
言葉が繰り返し用いられている。(略)

1380年、聖カテリーナは絶望のうちに三十三年の短い生涯を終えた。


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圧倒的な美しさといっても、やはりシエナの中央広場の美しさの質は
ローマやフィレンツェ、またヴェネツィアのようなルネッサンス的、また古代的な
ものとは全く異質で、ストイックで、厳格な雰囲気が強烈です。

つまりそれは中世的ということになるんでしょうが、戦争と泥沼の宗教抗争
の時代、やはり社会の、人々の不安を一掃する力が、宗教に
満ち満ちていた時代を想像しながら、もう一度シエナのカンポ広場に
立つと全く違った世界がそこに広がってくるでしょうね!

シエナ、そしてモンテプルチャーノといえば、古典的トスカーナワインのメッカ
ですね。

フィレンツェとその南のシエナの間にはキャンティ・クラッシコのゾーンが広がり
シエナとその南東のモンテプルチャーノの間にブルネッロ・ディ・モンタルチーノ
そしてヴィーノ・ノービレ・ディ・モンテプルチャーノというワインファン垂涎の的
のワイン生産ゾーンが広がります。


美味しさと飲み易さ、そして飲み応えと個性を備えた逸品です。
コストパフォーマンス絶大のキャンティ・クラッシコです!


伝統派の素晴らしいブルネッロです!この素朴さは農耕民の素朴さ
ではなく、聖カテリーナの素朴さでしょう!


ブルネッロに手が届きにくい人は是非これを試してみて!ミニ・ブルネッロ
です。ブルネッロの深みを持ちつつ、フルーティーな旨味があります。


モダン派ヴィーノ・ノービレ・ディ・モンテプルチャーノの筆頭ですが
重苦しい野暮なモダンではなく、シャープな洗練を感じさせるワイン!

アヴィニョネージというワイナリー名は、アヴィニョンから教皇庁が
ローマに戻った際に、アヴィニョンからやってきた家族を意味
します。


なだらかな丘陵地帯と糸杉、朝の霧・・・・トスカーナほど神々しい風景
天国に一番近い場所を感じさせるところを僕は知りません。

この言葉を疑う者は、この映画を見よ!(^^;)


イタリアに亡命したロシアの映画監督タルコフスキーの「ノスタルジア」
です。ヴェルディの「レクイエム」の序曲とトスカーナの風景の相性が
神がかってます。やっぱり宗教的な世界です。





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Last updated  2009/06/21 08:20:58 AM
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