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カテゴリ:歴史・神話・古代史・文明
朝、ふと「知恵」という言葉が浮かんできた。
知恵とは一般的には「事の道理や筋道をわきまえ、正しく判断する心のはたらき。事にあたり適切に判断し、処理する能力」とある。仏教用語においては「空など仏教の真理に即して執着や愛憎などの煩悩を消滅させることができる、般若」。そして哲学用語においては 単なる学問的知識や頭のよさではなく、人生経験や人格の完成を俟って始めて得られる、 人生の目的・物事の根本の相に関わる深い知識、叡智(ソフィア)。 最近2つの人物のあるエピソードがとても気になっている。 ひとりは、幕末の英雄坂本竜馬。これは先日レバノン料理を共に頂いたひとが教えてくれた。自分自身が今、何をしていいのか分からない、というかこれまで突っ走ってきた分、 一体今は何なんだろうと考えてしまうときがあると話したときのこと。 『司馬遼太郎の「竜馬がいく」で、竜馬は何をしていいのか分からない時期があった。 でもその時期、ただひたすら続けたものがあった。それは剣なんだけれども、何を していいか分からないときでも、己を磨くことだけは忘れなかったんだよ」 そう、教えてくださった。それはご本人が経験されたことで、その方は今、日本の会社に勤めているけれども、過去は米に行ったり会社を経営したりとさまざまな経験をもたれている。瞳が綺麗な人だ。瞳が綺麗な人というのは、どんなときでも自分を磨く(外面に限らず内面も)ことを忘れていないのだと思う。それが実践的なものでなくとも、いずれの日のために自分を磨く。未来は分からないけれども、ひとの生きる「道」を模索し、ただ稽古を重ねる。武士道の世界。 さて、そしてもうひとりはなのだけれども乙支文徳将軍。 将軍であり、高句麗の大臣。高句麗の伝説的な将軍で、韓国ではスーパースターとして国民に知られている。612年、隋の煬帝が200万近くの兵で高句麗に攻め込んできたとき、なんと2万の兵でうちまかしたという、智将。清川江の戦闘は、前近代における世界最大の戦争とも言われている。隋は思わぬ天候と、疫病などで撤退せざるを得ない状況だったとも言われている。こうした天の計らいもあったのだが、王に自ら指揮をとると申し出た勇猛果敢さと共に「知恵」があったのだ。今、ちょうどその乙支文徳将軍を調べている。 2人とも私の大好きなひと。写真は乙支文徳将軍とも言われている顔の切手。 闘いは「知恵」をもって 望む。賢く、前進していこうと感じている。 私は東アジアの歴史があまり好きではなく、理解できなくて困っていたがなんとここ最近、その情報が自然にはいってくる。聖徳太子を読んでいても(梅原さんの)入ってこなくて困っていたが、ようやく読めるときがきたようである。そして自分が何をしていくのかも おぼろげながらに今日、見えてきたのである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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