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カテゴリ:昭和
写真1 写真2 写真3 写真4 写真5 千住は、松尾芭蕉の奥の細道への出発地として知られています。江戸の町の北限に位置し、奥州街道と水戸街道へ旅する人の出発拠点でした。そのため、早くから千住宿があり、東海道の品川宿より大規模の宿場町が形成されていました。 更に、千住は隅田川沿いの水路交通の要衝でもあったので、米、野菜、魚などの集散地として繁栄しました。千住には少し前まで「やっちゃば」として有名な野菜市場がありましたが、江戸時代は野菜だけでなく、江戸の台所を賄う大きな市場だったのです。 千住大橋から北千住に続く旧日光街道沿いを注意深く観察すると、今は道路名も変わり通常の商店街になった街並みの中に、江戸時代からの宿場町や野菜市場の形跡を見ることが出来ます。野菜と魚の市場は戦後のある時期まで続いたそうで、その名残として旧日光街道沿いの家々に商売の看板だけが掛かっています。(写真1) 明治以降は、軍服や制服を作る千住製絨所、千住火力発電所などの産業施設が政府により設立されて、千住地域は日本近代化の一翼を担うことになります。そのお陰で、嘗ての宿場町は賑やかな商店街に発展し、東京の下町となりました。旧日光街道沿いの店の中には、シャッターに浮世絵の千住名所がコピーされていて、ここが古い街並だったことを想起させます。(写真2、3) 今の日光街道は片道3車線の立派な自動車道ですが、都内から千住へ行くには隅田川に架かる千住大橋を渡ります。徳川幕府は江戸城防衛のため隅田川に橋を架けない方針でしたが、千住の橋だけは江戸入府後すぐに掛けました。そして隅田川に架かる橋は、明暦の大火で逃げ道としての橋の重要性が分かるまでは、千住の橋だけしかなかったそうです。 今は、立派な鉄橋の千住大橋が架かり、その袂には奥の細道へ出で立つ松尾芭蕉の銅像と碑が建っています。(写真4) 北千住駅は、従来の常磐線に加えて、地下鉄日比谷線、千代田線が乗り入れて都心への交通の便が極めて良くなりました。特に千住駅西口は再開発されて近代的になり賑わいを増しています。そのため、東京藝術大学千住キャンパスや東京芸術センターが進出してきて、東京の下町から文化芸術の街へ発展しています。 芭蕉は千住から奥州へ文芸の旅に出ましたが、日本の芸術が世界の旅に出るのは千住からと言う日も遠くないでしょう。(写真5) (以上) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.03.29 19:59:57
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