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塵と芥の思索室

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2013.05.06
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カテゴリ:マネジメント
 後付け説明に便利なものは「神様」と「心」。「ちゃんと神様がね・・・」「いま、あなたの心がね・・・」など。日本の公教育では、宗教教育がタブーとなっているが、同じくらいに証明不可能な「心」については、堂々と取り扱っている。「心の教育」「豊かな心を育てる」など。冷静になって考えてみると、心は育つものなのだろうか? 豊かになる前の心は貧乏なのだろうか? 心が折れるということは、心は細長いものなのか? 心が傷つくということは、心は物質なのか? 宗教のありがたさは癒しだが、宗教の弊害はものを考えようとしなくなることである。(本質的な宗教はものを考えるものであったはずなのだが。) 心の教育も同様に、なんでも心で片をつけてしまいがちなところが問題である。 「心を強くせよ」 とは、とても大声では言えない。なぜならば「どうやったら強くなるの」と質問されたらとても困ってしまうからだ。 しかし誰しも自分の心が強いとは思っていないから、「そうだな」とだまされてしまうか、反論できないまま黙ってしまうのである。 心にすがるのはやめよう。 このスローガンは、古代ギリシャや、17世紀のヨーロッパの科学者が、あらゆる現象の原因を神に起因させることから離脱しようとしたことと似ている。 なんでも心のせいにするのはやめよう。 では教育の場で、心に変わる何に注目すべきなのだろうか?それは「思考」だろう。考え方は、貧弱か高貴かを判断できる。考え方は、強弱が判定できる。故に、考え方はトレーニングで教化できる。モデルを示すこともできる。指導ができることは教育の場になじむ。そのためには、思考を支える言語力の鍛錬が必要であり、確認のための表現力が必要である。これらをカリキュラムとすることで、「思考科」ができるのではないだろうか。ある国では「哲学科」と呼んでいるが、日本でもそろそろ「考える」ということに真剣に取り組むべき時期ではないか。 さまざまな学校で、「その考えは面白いね」「その視点は、実に興味深い」「その筋立ては、思いつかなかったな、イヤ~まいった!」なんていう会話が、先生と生徒との間で飛び交うことは、そんなに難しいことではないはずだ。そのためにも、まずは先生方がしっかり考えるクセをつけるべきである。とりあえず、自校のスクールプランやシラバスを疑ってみてはどうだろうか。その時の基礎構文は、「そもそも○○とは何か」である。





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最終更新日  2013.05.06 08:41:25
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