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テーマ:日本人の誇り(299)
カテゴリ:国民の常識、メディアの非常識
日曜21時からTBSのTVで南極大陸が始まった。演出が強いものの、ほぼ史実のエピソードがベースになっていて当時の人の考え方、世相が伺えて興味深い。そこでもっと楽しむために、「宗谷」の歴史を手持ちの資料から述べてみたい。
「宗谷」の前身は、昭和13年6月10日に長崎の川南工業松尾造船所で竣工した「地領丸」である。同船は当初ソ連より発注され耐氷貨物船3隻の内の1隻で、同年2/16に進水し「ボロチャエベツ」と命名された。 当初よりソ連通商代表部との行き違い、建造費支払いなどの齟齬があり建造が遅れた。加えて日ソ間の国交が怪しくなり海軍からの要請もあり、川南工業は3隻とも建造計画を破棄してしまう。3隻は日本名に改名、神戸の辰馬汽船の支援を受け、辰南商船という持ち船会社を作り同社のストックボートとして傭船業務に就いた。海軍は3隻の砕氷能力に注目して、老朽化した「大泊」の代船として取得するつもりだったが、予算が成立しなかった。 昭和14年に海軍は測量任務を主とした運送艦予算を成立させ、「地領丸」の取得を決定、昭和15年2月20日に「宗谷」と改名して東京の石川島造船所で改造工事に入った。当初予定の砕氷艦にならなかったのは、日本政府の方針が「南進」となり、対ソ対策の砕氷船より南方海域の調査測量を最優先したものといわれる。同年6月4日に「宗谷」は完成、大湊要港部所属の特務艦籍に編入された。 特務艦「宗谷」は高角砲1門、連装機銃1基を備え、後部船倉内を改造、製図室、測量作業室などを設けた。編入後「宗谷」は千島、樺太の水路測量業務従事し、同年9月15日に横須賀鎮守府似配置替えとなり、10月11日に東京湾で行われた紀元2600年記念観艦式に拝観艦の一隻として参加している。 戦時中は、トラック、ソロモン方面で測量を続けた。昭和18年1月、クインカロライン港外で米潜から雷撃を受けるが不発。昭和19年2月のトラック諸島大空襲で座礁し総員退艦したが、空襲後、無事、離礁。その後、本土周辺の輸送任務に従事したが、数度の雷撃を受けても、命中魚雷は一発も無かった。「宗谷」が奇跡の船といわれる所以である。昭和20年の終戦を室蘭で迎えた「宗谷」は米軍に接収された。 同年10月1日、進駐軍は、大陸、南方の兵士、民間人を引揚させるため使用可能な船舶に総動員をかける。商船型の「宗谷」は、賠償対象からはずれ、同日付で大蔵省に返還された。引揚船として「宗谷」は船舶運営会に所属し、船倉を改造して千名以上を収容できるようにした。 今回はここまでとし、数奇な運命のなか、奇跡の船といわれる所以を紹介した。
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最終更新日
December 7, 2011 10:20:48 AM
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