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四国には八十八、関東地方には札所が三十三ある。関東の札所は坂東三十三札所と言われる。 この「坂東」とは足柄峠と碓氷峠の坂から東の地方を意味し、これらの坂の東の地域即ち現在の関東一都六県を指す古称である。 坂東三十三札所を都県別にみると、東京1・神奈川9・埼玉4・千葉7・群馬2・栃木4・茨城6が存在している。 沙門亮盛の「坂東観音霊場記」(江戸期)に、「花山法皇が大和長谷寺で祈念していた際、老僧があらわれ「我れ坂東八州に於て身を三十三所に現ず。其の能く霊場を知るは河州石河寺の仏眼上人なり。彼と倶に坂東巡礼を始行してあまねく道俗男女を導くべし」とのお告げを受けた」と書かれていて、花山法皇が巡ったのが嚆矢とされ江戸時代までそのように信じられていた。 実際には花山法皇が関東に下向されたとの史実は無く、西国札所と同じように札所の権威づけのための作話であるとされ坂東札所の成り立ちは、西国札所を模倣したものであるとするのが通説となっている。 本尊を十一面千手観音とする坂東第16番札所は、群馬県渋川市にある天台宗の五徳山水沢寺である。 水沢寺には観音堂と地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間界・天人界の地蔵尊を祀る六角堂・鐘楼・仁王門などがある。 高光中将の后の伊香保姫は継母により姉二人は謀殺されたが、伊香保姫は信仰していた千手観音の化身によって助け出されたことから姫の持仏の千手観音を本尊とした水澤寺を上野国司高光中将が推古天皇の時代(592~628年)に自らの菩提所として創建したと伝えられている。 その後戦火や附け火など、幾たびかの大火に逢い焼失した。現在渋川市指定重要文化財に指定されている建物は、天明7年(1787)に再建されたものである。 駐車場から本堂へ向かう右側にある釈迦堂は特別無料拝観中で、右側の部屋には円空仏他さまざまな仏像が安置されている。 また左の部屋は坂東三十三観音霊場のレプリカの観音像が据えられていて、一回で三十三札所を巡ったと同じご利益があるというという「お砂踏み」ができる。 本堂の左横に、飯縄大権現を祀った社へ続く急な一段の踏み幅30cmほどしかない狭い石段がある。 石段の下に40mと書いた看板があるがそんな距離では無いように思われ、この距離は高低差のことであったのかも知れない。 石段を上った社の左は水沢山への登山口となっており、ここから40mほど先の左側に万葉の碑がある。 伊香保ろのやさかの堰塞(いで)に立つ虹の顕(あらは)ろまでもさ寝をさ寝てば (万葉集東歌上野国歌14巻3414) 厳秀(榛名山)の八坂の堰塞(いで)にあざやかな朝虹が立つ。その虹のようにはっきりと2人の仲が知れてしまってもかまわない。それまでも共寝をしたならばどんなによかろう。さあ寝よう。寝ましょう。 ※「やさかのゐで」は、滝沢川に設けた堰堤である。 榛名山麓から湧き出る水が、水澤地名の由来とされており水澤観音と万葉歌とは何の関わりもなさそうである。 この碑が何故、この水澤山への登山口に建立されたのかについての詳しい経緯は分からない。 本堂の後背を彩る水沢山は例年より若干遅目という紅葉が真っ盛りで、上州名物の強風にも関わらず紅葉狩を兼ねた多くの参拝客で賑わっていた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年08月11日 10時30分45秒
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