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戦前に高峰三枝子が唄って大ヒットした、「湖畔の宿」という歌謡曲がある。 高峰三枝子と言えば、1982年に国鉄のコマーシャルで上原健との入浴シーンで亡くなる8年前の74歳だというのに豊満な肉体を披露して話題となったので覚えている人も多い。 「湖畔の宿」は日・独・伊三国軍事同盟が締結され、日本が大戦に向けて突っ走り始めた昭和15年(1940)に発表された。 高峰三枝子が唄うこの歌は「感傷的で淋しい詩とメロディが、戦意高揚を損なう。」としてレコードの発売が禁止になったのだが一度聞いた人々から爆発的に広がっていった。 平成になってからも多くの歌手がカバーしていて案外若い人でも聞いたことがある人がいるが、今の若い人はこのような感傷に浸る人も少なくなってあまり流行らない。 往時戦地慰問に行ってこの歌を唄うと若い特攻隊員たちが直立不動で聞き、そのまま出撃していったと高峰は語っている。 作詞者佐藤惣之助は、この歌のモデルとなった湖について語ることなく昭和17年腦溢血のため死去した。 惣之助没後「湖畔の宿」のモデルとなった、「淋しい湖」がどこなのかということが話題になり湖探しが行われた。 高峰も聞かされていなかったことから、好きな芦ノ湖を思い浮かべて歌っていたのだという。 惣之助は諏訪湖・浜名湖・山中湖などを巡ったことがあり、それぞれの地域でそれぞれがモデルの地だとして主張してきた。 山の淋しい湖のイメージは山に囲まれた比較的小さな湖であり、昭和15年であっても諏訪湖や浜名湖では歌詞にそぐわない。 佐藤惣之助が昭和17年に榛名湖畔の旅館「湖畔亭」の贔屓にしていた仲居に送った手紙が、偶然昭和63年(1988)2月に発見された。 この手紙からモデルとなった湖は榛名湖であることが判明し、湖論争に終止符が打たれることになった。 その手紙には「湖畔の宿」は榛名湖のことではあるが、あの中のことは全く夢だよ。ああいう人もあるだろうとおもったので書いたもの。宿は湖畔亭にしておこう」と記されていたという。 「湖畔の宿」のモデルが榛名湖に確定したことから群馬県は、「歌碑公園やモニュメント・ 野外音楽ステージなどの施設をつくり観光にも役立てる」目的で平成元年1月に「榛名湖畔の宿記念公園とモニュメント」を完成させた。 伊香保から県道33号線で榛名湖に出て、榛名神社方面に左折しないでそのまま湖に沿って約5分進むと左側にある。 完成除幕式には、曲を付けた服部良一と高峰三枝子が招待された。 斜面の中腹に湖を左手に見る半円階段状の観客50人規模の観客席を備えたステージが設けられ、その右上のテラスには「湖畔の宿」とは何の関係も無さそうな分部順冶のそれぞれ「髪・妖」の名前が付けられた等身大の2体の裸婦像が設置されている。 記念公園には歌詞が刻まれたプレートをはめ込んだ碑や、付いているレバーを押して左から順次に打つとメロディーを奏でる柵、近付くとセンサーによりメロディーが流れる碑などが設置されている。 しかし30年近く経った現在、ステージには枯れ草が生え、柵の音程は狂いセンサーはもぎ取られて荒れ果てている。 意気込んで作った祈念公園だがその後のメンテナンスもされず、設立当初の趣旨が十分に生かされていないのは寂しい限りである。 月曜日の8時過ぎのせいか紅葉シーズン真っ盛りというのに訪れる人は無く、76年前に作られた湖畔の宿の歌詞と同じ淋しい湖の姿があった。 湖畔亭は記念公園方面へ三差路から2分ほどの右側、湖のほとりにある。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2016年11月15日 16時09分24秒
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