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鹿柴
空山不見人 但聞人語響 返景入深林 復照青苔上 (静まり返った山中に人の姿は見えず、ただどこからか人の声だけが聞こえる。夕日が深い林の中にさし込み、青い苔の上を照らしている。)王維(699年~759年または701年~761年) この漢詩の題の「鹿柴」は王維の別荘にあった、柴を用いて鹿を囲い込むために作られた垣根のことだが詩の内容とは関係が無い。 この詩に詠まれたように人の耳は、ときとして静寂の中に時を刻む時計の振り子の音や虫・鳥の声だけを聞くことがある。 江戸時代の民謡を集めた山家鳥虫歌の和泉の項に、王維の鹿柴と同じ趣向で「声はすれども姿は見えぬ 君は深山のきりぎりす」とある。 この時代にキリギリスというのは、現代の蟋蟀のことを指していた。 男の訪れを待つ女心のやるせなさを、山中で姿を見せないで鳴く閻魔蟋蟀に擬した歌である。 これが寛永(1624~1644)のころになって吉原の遊女が歌いはじめた「片撥」に受け継がれると、「声は聞けども姿は見えじ、君は深みのきりぎりす」(噂にあなたの名前はよく聞くが、ちっとも訪ねて来てくれない。)のように変化した。 宮城県民謡の「定義節(じょうげ)」では、キリギリスが「…藪に鶯 声ばかり」と変化している。 鶯も大きな声で鳴くが藪の中を素早く移動するので、一般的にはその姿をじっくり見る機会は少ない。 それらはやがて「本質は存在するのにその姿が見えないもの」の代表として身近な屁が取って代わり、「音はすれども姿は見えず、ほんにおまえは屁のようだ」となる。 この言い回しは講談や落語などで使われ、広まっていったとされる。 「音はすれども姿は見えず…」はよく理解できるのだが屁を使って、容易・たやすい・とるに足らない・問題にしていないという意味で何故河童と屁が使われるのか少し理解に苦しむ。 屁の河童の由来となった言葉は、「木端の火」の木端が河童になったのだという。 木切れや薪の切れ端の木端を薪にしても火力が弱く火持ちしないことから、「たわいもないこと・はかない」ことに譬えて「木端の火」という言い回しの言葉があった。 一方屁理屈・屁とも思わぬなどのように、屁はつまらないことの代名詞として使われる。 そんな木端と屁が合体して、河童の屁あるいは屁の河童となったとする説がある。 人の体からは口からと尻から出るガスとがあるが、口から出るゲップには食傷気味についていう「ゲップが出るほど…だ。」のように使う以外の言葉が見つからない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2016年12月01日 11時31分53秒
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