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ゆきよきの言語学・夏目漱石・日本史

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2017年10月21日
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カテゴリ:雑記
(3)停動

 バスケのほかに、高校時代はよくカラオケにもいったものだ。高校に入って初めての友人が、そこそこ歌が上手くて、おまけに我が家から最寄りの鉄道駅がある街(そこは片田舎なりに栄えていた街だった)に住んでいたため、その友人の家のすぐそばにカラオケボックスもあったのである。そこでそれこそ毎日のように、部活が終わってからそのカラオケボックスにいったものだった。ちなみに私は、家から高校まで片道45分位を自転車で通っていたのだが、そのカラオケボックスの位置は、ちょうど家と高校とを結ぶ直線を底辺にした時、正三角形の頂点の位置にあったのである。つまり、真っ直ぐ家に帰る場合に比べて、倍の時間をかけて帰った(カラオケの時間を除く)わけである。しかも、初めのうちはその友人も自転車で通学していたのだが、その友人に彼女ができてからというもの、彼女と一緒に電車通学になったのはいいが、(彼女と一緒に帰らずに)私とカラオケに行く場合に限り、私の自転車の後ろに立ち乗りして一緒に帰ったものだから、その時の私は真っ直ぐ帰る場合の3倍ほど疲れることになったのであった。

 こんなペースで思い出話をしていたら、いつまでたっても私は40歳にならないから、ここからは多少端折っていくことにする。

 とにかく、バスケにカラオケに、一生懸命だった私だが、勉強の成績が一番頭抜けていた。バスケでは、高校最後の大会も結局はレギュラーになれなかったし、カラオケでも友人には勝てないという思いがあった。しかし頭は一番良かった(というのは、あくまでも偏差値でという意味であって、今から考えるとそれは頭が悪かったという意味にもなる)。高校3年生の2学期の通知表が特にビックリで、10段階評価(1が一番悪く、10が一番良い)で数学以外の全教科が10(もちろん体育も図画も音楽も!)、数学も8というものだった(これはテストでの計算間違いが原因だった)。担任の先生から通知表をもらうとき、この成績はこの学校史上最高点だとかいわれてしまった(その当時で既に90年ほどの伝統がある学校だった)。

 しかし今考えてみると、こうした言葉が私を調子に乗らせ、大学というモラトリアムの、更なるモラトリアムに私を3年間も縛ることになったのかもしれない。現役時代も含めて4年間、たった1つの大学のたった1つの学部以外には受験しなかったのである。これは前にもどこかこのブログ内の文章で書いたことがあると記憶しているが、高校の国語の教科書にあった夏目漱石『こころ』に凄まじいまでの衝撃を受けた私は、小説家になることを志し、そのためには何としても文学部に行く必要があると勘違いしてしまったのである(現に私が大学在学中だったと思うが、法学部(出身?)の人間が芥川賞を受賞している)。

 ともかく、何とか大学生になることができた私は、大学の講義では言語学関係(小説家になるためには言語を自由自在に使いこなす必要があると考えていた)のものばかりに出席し、サークル活動では、主に経済学の勉強をするサークル(実は私より先に大学生になっていた弟が所属していた)に入って勉強し、空いた時間はガソリンスタンドでバイトするという生活を送っていったのである。そして今度は遅れることなく、立派に卒業したのであった。

 その後私は、実家から見れば大学がある方向とは全く逆の方向に倍ほどの距離を進んだ場所にある会社に就職し、窓口業務を経て、現在はシステム部門で働いている。長男であるにもかかわらず、実家も継がずに当地に家も建てた(妻のお父さんが設計もする大工さんで、そのお父さんに建てていただいた)。

 こうしてざっと私の40年を振り返ってみるとき、その時々で一生懸命になれるものを見つけ、それが年齢とともに色々なものに移っていったことが分かってくるのである。野球、サッカー、バスケ、カラオケ、小説、(受験勉強、)言語学、経済学、諸々の仕事の知識。しかし移っていったとはいえ、これらはいまだに私の中にあり、今の私を創っているものだといえる。ただ中心が変化していっただけだともいえると思う。野球やサッカーは自分ではやらなくなったが、観戦するのは好きであるし、バスケは実は3年ほど前から(実に20年ぶりくらいに!)再開した(今年度からは公式試合にも出ていて、つい先日、4試合目にしてはじめてシュートを決めることができた。なんと、苦手なはずのゴール下のシュートである。これが「ゴール下のシュート恐怖症」を克服できたとした要因である)。カラオケは今でも家族でよくいくし、夏目漱石も含めて小説もよく読んでいる。言語学は私の人生の中心になりつつある。そして経済学やその他の学問も、我々の研究会で学び続けているところである。

 さて、こうした人生を内包している私は、40歳を迎えるにあたって何を考えるべきか。ここからが本題である。読者の方々がここまで読み進めて、楽しんでいただけたかどうかは別として、ここまでは格調が高かったということはないことだけは間違いない。ここからである(予定)。

 我々の京都弁証法認識論研究会は、私も所属していた大学のあるサークルのメンバーが中心となって継続してきたものである。私が入学したときにはすでに、その原基形態が出来上がっていた。当初私も誘われて、瀨江千史『看護学と医学』を扱う勉強会に参加したことを覚えている。しかし、なぜ大学で言語学と経済学を中心に勉強し、ガソリンスタンドでバイトしてためたお金でビールを楽しく飲んでいる私が、『看護学と医学』なのか、その意味するところが全く分かってはいなかったのである。一度か二度参加して、それなりにしてしまったのであった。

 京都弁証法認識論研究会との再会は、実に12年後のことである。就職してすでに9年目、昇格して新しいポストに着いたものの、これまでのように夢中になって取り組める対象を失ってしまっていた。思い返せば、球技なら何でもそこそこできたのも、決していきなりできたわけではなかったはずである。それが楽しいと思って、必死で練習したからこそできたのではなかったか。バスケのシュートにしても、これだけは絶対に負けないと思って練習を積み重ねたからこそ、よく入るようになったのである。しかし当時の私は、仕事と両輪で取り組んでいたある組織も抜けて、ただただ職場で仕事をし、家に帰って多少家族と団らんし、そして寝るだけの生活を送っていたのであった。夢中になれるものもなく、そのため私の発展が停滞してしまっていたのである。

 そんな時、かつて大学時代に京都弁証法認識論研究会の原基形態的勉強会に誘ってくれた友人たちが、まだ継続して勉強を続けている場に私を誘ってくれたのである。何か自分でもやれることがないか、それを通じて自分の新たな姿を築きあげていくことができるのではないか、そんな期待を胸に、合宿形式の勉強会に参加したのであった。





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最終更新日  2017年10月21日 06時00分29秒
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ガラスの玉は、本物の真珠をきどるとき、はじめてニセモノとなる。

政治の分野であろうと学問の分野であろうと、革命的な仕事にたずさわる人たちは道のないところを進んでいく。時にはほこりだらけや泥だらけの野原を横切り、あるいは沼地や密林をとおりぬけていく。あやまった方向へ行きかけて仲間に注意されることもあれば、つまずいて倒れたために傷をこしらえることもあろう。これらは大なり小なり、誰もがさけられないことである。真の革命家はそれをすこしも恐れなかった。われわれも恐れてはならない。ほこりだらけになったり、靴をよごしたり、傷を受けたりすることをいやがる者は、道に志すのをやめるがよい。

孤独を恐れ孤独を拒否してはならない。名誉ある孤独、誇るべき孤独のなかでたたかうとき、そこに訪れてくる味方との間にこそ、もっとも深くもっともかたいむすびつきと協力が生まれるであろう。また、一時の孤独をもおそれず、孤独の苦しみに耐える力を与えてくれるものは、自分のとらえたものが深い真実でありこの真実が万人のために奉仕するという確信であり、さらにこの真実を受けとって自分の正しさを理解し自分の味方になってくれる人間がかならずあらわれるにちがいないという確信である。

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