|
カテゴリ:カテゴリ未分類
突然ではあるが、将来の夢である
私は銭湯好きである。週に2~3回は行く 家の風呂はあくまでも銭湯に行けないときの補助でしかない。 銭湯に通う理由はリラックス。気持ちを切り替えるのに使う。良い考えは風呂はいっていると浮かぶことが多い。 でもなんといっても大きな湯船と広い空間が、とても贅沢なのだ。 で、たいがい静かだし。 好きが高じて、地方も含めていろいろなところに行っている。銭湯は、町の一部であるとつくづく思う。 銭湯のそばにはたいがい飲み屋さんがある。商店街も多い。地元に溶け込んでいるので、お客さんもたいがい地元の人だ。地域の社交場というのも当然だ。 最近は、この地域性がめっきり薄れた。 風呂は自宅。 買い物も地元ではなく、休日に車でどこかへ行くことが多いだろう。 地域とはあまり関係がない。隣に誰が住んでいるかもわからない。 大人はともかく、これで影響受けるのが子供だ。公園で子供が遊んでいる姿をあまり見かけない。 地域の友達ができるはずの学校も、学校選択制度とやらで、崩れ始めている。 血縁以外の関係が薄くなっているのだ。その家族も核家族が主。 これがなにを意味するかというと、子供たちが自分の場所というのを確保しづらくなるということだ。 家庭でもしトラブルがあった場合、当座の逃げ場がないのだ。 何か問題が起きても、当座の居場所があると、そこで冷静になれる ずいぶん救われるのではないかと思う。 学校は本来その居場所だったのだが、公教育=サービス業という風潮が強くなってからは、趣旨が変わってしまった スクールカウンセラーもいるが、はっきり言って、カウンセラーさんは、こども達と始終一緒ではない。何かあったときの相談窓口。相談のプロだが、どうも少しイメージが違う。 地域というのはその受け皿だったはずだ。 他人の子でも見てくれる人がいるというのは、子供の成長にとって大きいはずだ。 銭湯は、その一例だったろう。 ところで、私の教室は、自分で言うのもなんだが、生徒たちの居場所になっていると思う。 でなければ、休日にわざわざ教室に来るわけがない。 他人が見る良さというのは、実際生徒とつきあってみて感じる。 結局の所、居心地の良い空間作りというのは、設備ではなくて、自分をしっかり見てくれる実感があるかどうかだと思う。 そこで一歩進めて、私が好きな地域の社交場でもある、塾と銭湯を結びつけたいと思う。銭湯の敷地を少し借りて教室を作る。生徒は、勉強後風呂にはいるのだ。もちろん勉強前でも可。銭湯の営業時間と塾の営業時間は同じようなのでやりやすい 子供は総じて大きい風呂が好きだ。 騒ぎすぎて怒られるかもしれない。でもそれでよいのだ。毎日のように顔をあわせていくうちに、いろいろお世話してもらえるかもしれない。世話好きなおばちゃんっていっぱいいるのだ。 最初は戸惑うかもしれないが、誰かにお世話されて、当人も悪い気持ちになることはないはずだ。 子供が行っていれば、たまには親もってなるかもしれない。 そうやって地域を巻き込んでいきたいのだ。 特に日本人はそうかもしれないが、強烈な個を持った人など少数派だ。ちょっと前までは、こういった良い意味での互助機能が働いていた。それが少しでも健全に機能すれば、ワーキングプアも自殺者の高止まりも、鬱病患者も少しは減ると思う。 たしかに人つきあいはムズカシイ面もある でも基本的にひとは、人とのつながりを欲しているのは、携帯メールの隆盛をみていてもよくわかる まだまだ夢物語だけど、あえてここで宣言してみようと思う どこか協力していただけるところはないでしょうか?(笑) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007.10.18 15:24:22
|
|