会長の急逝は宗門誹謗路線の結果
顕正会の会長だった浅井昭衛氏が逝去されてから、一ヶ月が過ぎました。顕正会の方も少しは気持ちの整理がつきましたか?さて、今回は浅井昭衛氏の逝去について考察してみたいと思います。まずは、浅井昭衛氏が考えていた顕正会の方針について書きたいと思います。・宗門に復帰するつもりだった顕正会宗門から解散処分を受けた顕正会(妙信講)でしたが、正本堂を撤去させて宗門に復帰するというのが浅井昭衛氏の考えでした。この昭衛氏の方針は、平成2年に日顕上人へ送付された諫暁書の下記の箇所にもよく表れています。「この重大なる不敬を謝し、御遺命違背の大罪を償う道はただ一つ。速かに、戒壇の大御本尊を清浄の御宝蔵に遷座し奉り、誑惑の正本堂を撤去すること。これ以外には断じてありません。」(『正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む』212ページ)正本堂から戒壇の大御本尊が御遷座され、正本堂が撤去されることを顕正会では「御遺命守護」と呼び、下記のように「御遺命守護」が完結すれば顕正会員は宗門に復帰できると浅井昭衛氏は約束していました。「やがて御遺命守護完結のその日には、顕正会員こそこの捨身の御奉公によって、時の御法主上人より、晴れて御本尊の授与を賜わる資格を得るのである。」(『日蓮大聖人の仏法 初版』66ページ)・実現した「御遺命守護完結」顕正会が望んでいたその「御遺命守護」は、平成10年4月に実現し「完結」しました。「平成十年四月五日夕刻、突如として本門戒壇の大御本尊は、誑惑不浄の正本堂から元の奉安殿に還御あそばされた。(中略)還御の五日後、顕正会は御遺命守護完結奉告式を奉修した。」(『日蓮大聖人の仏法 改訂版』280~281ページ)この時、顕正会は「御遺命守護完結」を明確に宣言したのです。ただし、日顕上人は「正本堂は本門の戒壇である」と主張する創価学会の謗法を破折するために、戒壇の大御本尊の御遷座と正本堂の撤去を御決断されたのであり、決して顕正会の「諫暁」を用いられたわけではありません。・実際に宗門へ帰ろうとした顕正会結果的にではありますが、正本堂の撤去が決まり、「御遺命守護完結」が実現したので、このタイミングで浅井昭衛氏は宗門と交渉を行い、宗門へ帰ろうとしたそうです。この時、浅井克衛氏が宗門側と交渉したという話も残っています。しかし、交渉は上手くいかず、昭衛氏は宗門に復帰できないという厳しい現実に直面したのです。ここで、顕正会員の皆さんは国立戒壇の件はどうするつもりだったのか?と思うことでしょう。しかし、浅井昭衛氏は元々、国立戒壇にはそれほど執着していなかったと私は考えています。昭衛氏にとって、国立戒壇は正本堂を否定するための手段であり、元々は達成すべき目的ではなかったと思います。それゆえ、戒壇の大御本尊が御遷座され、正本堂の撤去が決まっただけで、「御遺命守護完結」を宣言したのだと思います。・宗門復帰に失敗し宗門誹謗路線へ転向した顕正会宗門復帰に失敗した浅井昭衛氏は、宗門に帰るという方針を捨て宗門誹謗路線へと舵を切ります。正本堂が撤去されて顕正会の存在意義が失われたので、昭衛氏はそれまで認めていた日達上人から日顕上人への血脈相承を否定したのです。顕正会は宗門へ復帰するのが前提となっている組織です。宗門へ帰ることができないのなら、宗門を否定し続ける必要があります。そうしなければ、顕正会員は宗門へ流れていくからです。こうして、現在の顕正会は血脈を否定する大謗法団体となったのです。血脈否定については、私のブログの『顕正会の血脈否定-1〜4』で詳しく取り上げて破折しています。『顕正会の血脈否定-1』『顕正会の血脈否定-2』『顕正会の血脈否定-3』『顕正会の血脈否定-4』浅井昭衛氏の宗門誹謗は、次第にエスカレートしていきました。そして、昭衛氏は今年の5月度総幹部会で、まともな根拠も示さず日顕上人の御臨終の相を誹謗しました。天に唾すれば己にはねかえるように、昭衛氏が推進してきた宗門誹謗路線は、会長の急逝という顕正会にとって最悪の結果をもたらしました。しかしながら、前述のように昭衛氏の本来の方針は宗門に復帰することだったのです。顕正会員の皆さんは、「浅井先生」の本来の方針を深く受け止めなければいけません。そして、顕正会員が帰るべきところである宗門に帰伏しようではありませんか。最後になりましたが、このブログのタイトルをもって締めの言葉とさせていただきます。「顕正会員は日蓮正宗に帰伏するべし」