カテゴリ:歴史・考古学
「アメリカの歴史」という本をひもとくと、その先住民であるインディアン(「アメリカ先住民」という言い方が提唱されているが、あえてこう書く)の「歴史」に触れられることはほとんど無い。彼らに歴史的記録がないことも大きいが(ただしスー族は絵文字で部族の歴史を記録した)、あたかもアメリカという近代国家が「無人の地」に建設されたかのような言説がいまだにまかり通っている。このような歴史観はヨーロッパ人のアメリカ大陸「発見」以降、インディアンが歩んだ苦難の歴史と表裏一体である。ケヴィン・コスナー主演の映画「ダンス・ウィズ・ウルヴス」などはそのテーマに正面から取り組んだ最初の作品だろう。
アメリカ大陸に人類が初めて現れたのはおよそ1万3千年前といい(ただし考古遺物の年代測定によって2万年前を主張する人もいる)、氷河期のため陸続きだったベーリング海峡を越えて北からやってきたと考えられている(最近サウス・カロライナ州で5万年前の炉址が発見されたと報じられたが、研究者の多くはその信憑性に疑問をもっている)。この人々はおよそ4000年かけてアメリカ大陸を南に縦断、こうしてアフリカ大陸に起源をもつ人類はユーラシアを経由し太平洋をぐるりと回ってその地球上全体への拡散を完了したのである。北米インディアンはじめアメリカ先住民は東アジア人と同じモンゴロイドの形質をもっている。 従来の定説通りアメリカ大陸に人類が登場したのが1万3千年前、南米先端への到達が9千年前だとすると、西アジアで人類最初の原始農耕への試みが始まった時期とほぼ同時期ということになる。それまで狩猟採集による遊動生活をしていた人類は人口圧が起きると新天地に移住して危機を回避していたが、地球全体に人類が拡散したのと人類最初の定住・農耕の開始が時期的に同じというのは「百匹目のサル」の話(「サルの芋洗い」が地理的に互いに連絡の無い場所で起きたことを指す)みたいになるが、偶然の一致ではないのかもしれない。 氷河期には現在のカナダはほとんど氷河に覆われていた。アメリカではユタ州クローヴィスで見つかった1万1千年前の石製槍先が最古の遺物である。このような石槍を使っていたインディアンの祖先にあたる人々は、20人ほどが互いに協力してバイソンなどの大型獣を落し穴に追い込む大規模な狩猟を行っていた(ワイオミング州キャスパーでは、1つの落し穴から75頭分のバイソンの骨が見つかっている)。その他漁労や植物の採集で生活していた。紀元前8000年頃からは植物を砕くための摺り石の量が増え、食生活での植物利用が増加したことを示している。ミズーリ州スローアンで発見された埋葬址は北米大陸最古のものである。 紀元前5000年頃、ミシシッピ河沿岸の中央平原でヒョウタンの栽培が始まった。さらに紀元前4500年頃には北米東部にトウモロコシ(南米原産)の栽培が伝わり、北米大陸での農耕生活が本格化する。農耕の開始は同時に、定住生活の始まりでもあった。しかし南米や中米のような集中した農耕やそれに基盤を持つ文明(都市)の成立は北米には見られず、農耕は粗放なものにとどまっていた。一方テキサスなど南西部では定住した狩猟採集生活が行われていたが、こうした自然の恵みに依存した生活形態は同時代の日本の縄文文化に似通っている。 紀元前1800年頃にはヒマワリやカボチャの栽培も始まったが、いずれも中米の先進農耕文化の影響と見られる。農耕生活の始まりは余剰生産を生み出し、より組織化された社会を生み出した。ルイジアナ州ポヴァーティ・ポイントにある直径1.2kmの半円形に築造された土塁群は、宗教儀礼のために共同体による大規模な建設活動が行われていたことを示している。 紀元前700年頃からはオハイオ川沿いに同じく農耕文化であるアデナ文化が栄え、古墳を多く築造し、自然銅を加工した装飾品などを副葬していた。このアデナ文化の遺物の中にはパイプがあり、タバコ嗜好の最古の例として知られている。紀元前300年頃にはアデナ文化に平行して北東部(オハイオ州)の森林地帯でホープウェル文化が成立し、首長制や遠隔地との交易が見られ、紀元前150年頃には「ガラガラ蛇の丘」という用途不明な蛇形の長さ405mの丘を築いている。 一方南西アメリカではやや遅れて紀元前700年頃に農耕文化が成立し、紀元前後のバスケットメイカー文化2期では、1つの村は最大11軒の円形竪穴住居から成っていた。この文化の担い手はアナサジ族、ホホカム族、モゴロン族だった。500年頃からバスケットメイカー文化3期が始まり、アナサジ族の村は最大50軒規模にまで拡大した。 600年頃、メキシコ文明の影響でホホカム文化が成立する。彼らは泥レンガで出来た家に住み、独特な土器を作り(独特の土器を持つ同類の文化にミンブレス文化がある)、900年頃からは乾燥した気候に対処して農耕のための用水路を引いていた。またアナサジ族はプエブロと呼ばれる日干しレンガ(アドビ)で作った集合住宅式の集落を営んだ。 700年頃には北米に初めて弓矢が登場して大型獣の狩猟がより効率的になり、また750年頃にはミシシッピ河流域のコールズクリーク文化で北米に初めて都市的な集落が成立する。北東部ではアデナ文化に代わりイロコイ族・モヒカン族の文化が成立し、豆とトウモロコシを栽培していた。 1000年頃になるとアナサジ族のプエブロに防御施設が見られるようになり、かつアリゾナ州メサ・ヴェルデやチャコ渓谷では防御に適した崖に住居が建設され、集団間で戦争が行われたことを示している。11世紀半ばにはミシシッピ河上流では都市的集落が発達し、イリノイ州カホキアでは人口3万に達する都市や120に及ぶ古墳が建設され、中でも大きさ300 x 200m、高さ30mにも及ぶ「僧の墓」は土製ながらも階段状のピラミッドを思わせ、アステカ文明のそれよりも大きい。地球上のほかの地域に比べ遅れてはいるものの、インディアン社会は着実に変化(進歩)していた。 なお1000年頃、グリーンランドへの航路を外れたヴァイキングの一団がアメリカ大陸を発見し(=ヨーロッパ人による最初のアメリカ発見)、植民を試みているが、「スクレーリング」と呼ばれたインディアンに殺害されて失敗している。ニューファウンドランド島のランス・ド・メドウ遺跡はヴァイキング集落址と見られ、当時インディアンが知らなかった鉄器が出土している。またノルウェーの銀貨がインディアンの遺跡から出土した例もある。のち1121年にグリーンランドの司教エリークが北米に渡ったというが、ヨーロッパ人最初の北米移住の試みは、航海技術の未熟で上手く行かなかったようである。 13世紀の世界的寒冷化(小氷期)は北米にも影響し、ミシシッピ文化の都市カホキアは衰退を始め、アナサジ文化のメサ・ヴェルデやチャコ渓谷は放棄された。15世紀半ばには疫病によってミシシッピ流域の人口が激減したという。 16世紀の時点でリオ・グランデ川以北の北米大陸にはおよそ100万人が住んでいたというが、これは同じアメリカ大陸のアステカ帝国の1200万、南米のインカ帝国の600万という人口に比べても少なく、ましてやより狭いヨーロッパ全体の人口8000万人に比べるときわめて少ない(当時の日本の人口はおよそ1200万人)。ミシシッピ河流域を中心とする北米大陸の南西部でこそ農耕文化(チェロキー族など)があったが、西部の乾燥地帯(スー族、アパッチ族、シャイアン族など)や北部の森林地帯、そして太平洋沿岸地域(トーテムポールの風習がよく知られる海洋インディアン)では狩猟採集生活が続いていたから、この人口の少なさは当然とも言える。 寒冷期の始まった13世紀は「世界史の曲がり角」といえる。モンゴル帝国によってユーラシア大陸の中心がほぼ統一され(この征服にも気候変化は何らかの影響を及ぼしているのだろう)、東西交渉が活発化した。ヨーロッパは一時的な好景気に見まわれたが、14世紀になるとペストの流行などで人口が激減、またバブルがはじけて不景気に陥る。農業が不振になる一方、肉食の割合が増加した。15世紀に人口は回復するが、肉食依存の食生活はむしろヨーロッパに人口を養うだけの土地の不足をもたらした(面積あたりの人口扶養力は肉食中心よりも穀物中心のほうがはるかに大きい。なおこれはアナール学派のピエール・ショーニョの説)。イベリア半島でのレコンキスタ完成(1492年のグラナダ陥落=イスラム教徒に対する勝利)の勢いにのったスペイン・ポルトガルを嚆矢として外部への拡大を目指す「大航海時代」が始まったのは偶然ではあるまい。 1492年にアメリカ大陸を発見したスペインは、16世紀前半に中南米を植民地化し過酷極まりない収奪を行った。一方北米の植民地化は遅れた。1497年にイギリス王の委託を受けたジョヴァン二・カボトが北米大陸を発見し、1524年にフランス王の支援を受けたジョヴァン二・ダ・ヴェラッツァーノによって北米大陸の大西洋沿岸が探検された。さらに1540年前後にはスペイン人フランシスコ・バスケス・デ・コロナドやエルナンド・デ・ソトらによって北米大陸の内陸部が探検された。 しかし北米大陸大西洋沿岸部の荒涼とした気候や土壌はヨーロッパ人の関心を惹かず、漁業及び毛皮目的の少数の入植者があるに過ぎなかった。1584年にイギリスのウォルター・ローリー卿によりヴァージニアに植民者が派遣されるが失敗(インディアンに殺されたという。なお映画「恋に落ちたシェイクスピア」でもアメリカ植民地が背景として出てくる)、1607年のヴァージニア植民地(ジェイムズタウン)が本格的なイギリスによる植民地建設の嚆矢となった。フランスも1604年に北米植民地を建設している。 スペインは南米でインディオを労働力として使い、またスペイン人とインディオ間の通婚も行われてのちにメスチーソと呼ばれる混血集団が南米人口の多くを占めるようになったのだが、北米に植民したイギリス人やフランス人はインディアンとの交渉がほとんど無く(アニメ映画になったポーハタン族の娘・ポカホンタスなどは稀有な例だろう)、インディアンは「文明外」として排除された。 のちにアメリカがその領土を大陸西方に拡大するにつれて、インディアンも居住地を追われた。「涙の旅路」と呼ばれる、ジョージア州からのチェロキー族の強制移住(1838年)などはその最たるものだろう。1830年代の連邦最高裁判所の判決によれば、インディアンは外国と同じように条約を結ぶ対象で「アメリカ領土内に存在する独自の国民」と定義されており、アメリカ国民とは見られていなかった。 白人たちは「マニフェスト・デスティニ」(明白な運命)という、「アメリカ大陸は神が白人入植者に与えた約束の地」という勝手な理屈でインディアン追放を正当化した。白人の植民が西部に及ぶと、スー族やアパッチ族などは果敢に抵抗したが(アパッチ族のジェロニモことゴヤスレー、スー族のクレイジー・ホースことタ・シュンカ・ウィトコ、シッティング・ブルことタタンカ・イヨタケの抵抗が有名。なおインディアン映画でお馴染みの騎馬の風習はスペイン人が持ちこんだもので、元来アメリカに馬は居なかった)、近代軍隊には勝てず1890年(ウーンデッド・ニーの虐殺)までに鎮圧され、不毛の地の居留地に押し込められた。アメリカ合衆国でインディアンが公民権を得るのは1924年になってからである。 アメリカという国は多民族国家、自由の国といわれている。しかしそれを享受できるのは至高のアメリカという文明に属する(もしくは属そうと努力する)者に限られており、そうでないもの、またはそうあって欲しくないもの(インディアン、黒人、かつての日系人)に対しては酷薄・尊大極まりない態度を取る。20世紀に入ってからはアメリカはそれを国内に限らず世界中で行っているわけだが、こうした体質は先住民のインディアンとの接し方で身についたものなのだろう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[歴史・考古学] カテゴリの最新記事
|
|