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2013年02月18日
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カテゴリ:シリーズ京歩き

露と落ち 露と消えにし わが身かな 浪速の事も 夢のまた夢

有名な秀吉辞世の歌でありますが、
でも、実際に、秀吉が死を迎えたのは、伏見城の一室においてでありました。

死の間際、「返す々々、秀より事、たのみ申候」と遺言を書き残し、
五大老・五奉行を集めて、誓書を書かせたといいますから、
秀吉が死に際して、思い残すことというのは、
やはり、自分が亡き後の豊臣家のことだったのでしょう。


当時、朝鮮との戦いが継続中であり、
また、秀吉死すということが知れると、不測の事態が起こらぬとも限りません。

そのため、秀吉の死は秘匿され、
秀吉の亡骸は、人知れず、深夜の内に、伏見城から運び出されることになります。

五奉行のひとり前田玄以と僧と人足数名により、
秀吉の亡骸は、東山三十六峰のひとつ、阿弥陀ヶ峰まで運ばれ、
ひっそりと、葬られることになりました。

華麗な天下人の最期とは思えない、あまりに淋しげな野辺送りでありました。


***


この秀吉が葬られた場所は、今も、豊国廟として残されています。

阿弥陀ヶ峰の山頂近く、先日、そこを訪ねてみました。



豊国廟石段.jpg



幾重にもつらなる石段。

石段とはいえ、ちょっとした山登りのようであります。

豊国廟までは、全部で565段あるそうですが、
登りきるのは、やはり、相当きついです。

何度も何度も休みながら、黙々と登っていきます。

やがて、唐門が見えてきましたが、廟は、まだこの先でした。



豊国廟唐門.jpg



秀吉の死が公表された後には、この参道近くに豊国神社が建てられ、
秀吉は神格化され、豊国大明神として祀られました。

創建の当初は、お参りにくる人も多く、
このあたりも、人出が絶えなかったということですが、
しかし、豊臣家が滅亡してからは、徳川家によって廟も破壊され、
この周辺も荒れ果てていたのだといいます。

豊国廟が再び整備されたのは、明治時代。
現在の豊国廟は、明治期に再建されたものであります。



豊国廟.jpg



秀吉の墳墓に着きました。

墳墓の上には、これぞ稀代の英雄という感じの
立派な石塔が建てられていました。

墓前で静かに手を合わせ、豊国廟を後にします。



豊国廟鳥居.jpg



豊国廟のあと、方広寺へと向かいました。

方広寺というのは、前回の日記にも書きましたが、
大仏を建立するため、秀吉により創建されたという寺院。

でも、方広寺は、大仏というよりも、
大坂の陣が始まるきっかけとなった鐘銘事件の舞台となったということの方が
良く知られているのかも知れません。



方広寺.jpg



方広寺の本堂です。

往時は、この周辺一帯を寺域としていた広大な寺院であったのですが、
現在は、本堂と鐘楼が残されているのみ。

これが、あの方広寺かと、がっかりしてしまうほど、
今では、小さな寺院になってしまっています。



方広寺鐘楼1.jpg



関ヶ原の戦いのあと、天下の実権を握った徳川家康。

一方の豊臣家はといえば、
名目上、主家という形が続いているとはいうものの、
実質は、大坂を領するだけの一大名になってしまっていました。

それでも、さらに徳川政権を盤石のものにしたい家康は、
なんとか、口実をつけ、豊臣家を討伐してしまおうと考えていました。

そこへ、家康が持ち出してきたのが、方広寺の鐘銘についての難題です。


慶長17年(1612年)
方広寺の大仏が完成し、家康の承認を得て、開眼供養の日を待っていたある日のこと。

突然、家康から開眼供養を延期するようにという命令が届きます。

それは、大仏開眼に合わせ新たに作られた梵鐘の銘文の中に
徳川家をおとしめる文言が含まれているというもの。

「国家安康」「君臣豊楽」

国家安康は、家康の家と康の文字を分断する不吉な語句であり、
君臣豊楽は、豊臣を君主とするということを意味している。
これは、家康と徳川家を冒瀆するものである。

言い掛かりとしか言いようがない、明らかなこじつけではあるのですが、
この件を弁明するため、豊臣家家老の片桐且元が家康のもとを訪ね、
それが、こじれていったことが、やがて、大坂の陣へとつながっていくことになります。



方広寺梵鐘.jpg




方広寺には、その国家安康の鐘の実物が、今も、残されています。
この鐘、国の重要文化財にも指定されています。

「国家安康」「君臣豊楽」の箇所には、それとわかるように、色がつけられていました。

鐘楼の天井は、花格子になっていて、彩色画が描かれています。
きっと、かつての鐘楼内部も、華やかに彩られていたのでしょうね。

歴史を動かすことになった、この梵鐘を間近に見ることが出来る、この方広寺は、
なかなかに感慨深いものがあります。



方広寺鐘楼2.jpg



大坂の陣で豊臣家が滅亡した後、
徳川氏は、豊臣を半ば罪人であるかのように扱い、冷たい処遇を続けました。

豊臣家にゆかりの建物、豊国廟や祥雲寺、方広寺なども、
破却されたり、あるいは縮小されたりしました。

ところが、明治維新後になると、今度は、再び豊臣家が見直されることになります。

それは、徳川が逆臣となったことの裏返しでもあるのですが、
豊臣は、朝廷に対して幕府を作ることをしなかった忠臣であるとされ、
今度は、豊臣家が称揚されるようになっていきます。



豊国神社.jpg



方広寺に隣接し、建てられている豊国神社。

明治13年(1880年)明治政府によって、この地に再建されたものです。



豊国神社唐門1.jpg



豊国神社のシンボルともなっているのが、この華麗な唐門。

南禅寺金地院から移設されたものということですが、
元は伏見城の唐門だったのだといいます。

この欄間や扉の装飾など、細部まで贅を尽くした豪華なもので、
国宝にも指定されています。

豊臣家の栄華のあとを偲ぶことができる、華麗な造形であると云えますね。



豊国神社彫刻.jpg



秀吉の生涯を振り返ってみると、まさに波乱万丈。

乱世の英雄の栄枯盛衰は、常のこととは言うものの、
死してもなお、その評価が二転三転したりもします。

その栄華のあとを見るにつけ、逆に、はかなさを感じたりもします。

秀吉ゆかりの地を、いくつか訪ねてみて、
その偉大さと、はかなさと、愚かさと、
色々なことを感じた、そんな京の旅でありました。





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最終更新日  2013年02月18日 22時56分53秒
コメント(8) | コメントを書く
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Re:秀吉没後の豊臣家 ゆかりの地を訪ねて(02/18)   灰色ウサギ0646 さん
おはようございます。
秀吉も、いろいろと歴史上では言われていますが、あれだけの地位の差を跳ね返して行く実力と瞬発力が有ったのはすごいですね。
ころころと情勢が変わる戦国時代、少しの間違った判断で自分の国がつぶれる緊張感の中を生き抜くってすごいですよね。 (2013年02月19日 08時26分29秒)

Re:秀吉没後の豊臣家 ゆかりの地を訪ねて(02/18)   KAZNY さん
「国家安康」「君臣豊楽」の言いがかり。
明治維新後の豊臣家の見直し。
秀吉の評価、二転三転。
歴史って、面白いですね。 (2013年02月20日 06時53分43秒)

Re:秀吉没後の豊臣家 ゆかりの地を訪ねて(02/18)   picchuko さん
gundayuuさん、こんにちは!
なかなか興味深い京都の旅をされてますね。^^
この鐘にまつわる話、初めて知りました。
なんとも勝手ないいがかり。
でも、そういうことはその時代、(いやいや今も?)結構あったんでしょうね。
でも、やっぱり好きくない家康。
話は飛びますが、子供の頃、お札の顔を信長・秀吉・家康の3人にしたらいいのにって私が姉(だったかな?)に言ったことがあります。
そしたら、「もうちょっと見栄えのいい人がいいんじゃない?」という返事でした。(爆) (2013年02月20日 16時25分25秒)

Re[1]:秀吉没後の豊臣家 ゆかりの地を訪ねて(02/18)   gundayuu さん
灰色ウサギ0646さん
おはようございます。

>秀吉も、いろいろと歴史上では言われていますが、あれだけの地位の差を跳ね返して行く実力と瞬発力が有ったのはすごいですね。
>ころころと情勢が変わる戦国時代、少しの間違った判断で自分の国がつぶれる緊張感の中を生き抜くってすごいですよね。

秀吉の出世物語というのは、世界史の中でも珍しいといわれているようですね。
ひとつひとつの判断が国の命運を左右するなんて、その重責というのは想像を絶するものがありますね。
(2013年02月24日 09時18分12秒)

Re[1]:秀吉没後の豊臣家 ゆかりの地を訪ねて(02/18)   gundayuu さん
KAZNYさん
おはようございます。

>「国家安康」「君臣豊楽」の言いがかり。
>明治維新後の豊臣家の見直し。
>秀吉の評価、二転三転。
>歴史って、面白いですね。

それぞれの時代に、様々な人物群が活躍して歴史って本当に面白い。
ある時は英雄だといわれたり、ある時は悪人だと言われたり、歴史上の人物は、時代の子でもあるんですね。
(2013年02月24日 09時20分23秒)

Re[1]:秀吉没後の豊臣家 ゆかりの地を訪ねて(02/18)   gundayuu さん
picchukoさん
おはようございます。

>なかなか興味深い京都の旅をされてますね。^^

ありがとうございます。

>この鐘にまつわる話、初めて知りました。
>なんとも勝手ないいがかり。
>でも、そういうことはその時代、(いやいや今も?)結構あったんでしょうね。
>でも、やっぱり好きくない家康。

そうですね。
そういう言い掛かりを言ってくる人って今もいますね。
家康も、老年になり天下を取ってからは、いやらしい狸じじいみたいになってしまいました。
若い頃の家康は、誠実で律儀な印象で、人望も厚かったはずなんですけどね。

>話は飛びますが、子供の頃、お札の顔を信長・秀吉・家康の3人にしたらいいのにって私が姉(だったかな?)に言ったことがあります。
>そしたら、「もうちょっと見栄えのいい人がいいんじゃない?」という返事でした。(爆)

見栄えがどうかはわからないですが、
信長・秀吉・家康の3人は、確かにお札になっていても良さそうな感じがします。
最近は福沢諭吉や樋口一葉や夏目漱石や、明治の人ばかり。
偽造防止の関係もあって、写真が残っている人の中からということなんでしょうけど。
(2013年02月24日 09時28分14秒)

Re:秀吉没後の豊臣家 ゆかりの地を訪ねて(02/18)   ほほえみ塾 さん
gundayuuさんへ

確かに、卑しいと言われる身分から天下様になったのですから、凄いことだとは思います。
しかし、
秀吉の生きざまは私たちに多くの戒めを残してくれていると思い、感謝することも多いです。
自分の出生を考え、
我が子の事ひいては一家の末代までを考えると、
驕ることなくすべきことしておくべきことはあったと思います。
とは言え、
それが出来ないのが人間の悲しい性ですね。
徳川家も300年以上実権を握りはしましたが、
これも永遠というわけではありませんでした。
このことは洋の東西を問わず権勢をふるったとしても
長くてもたかだか数百年の事、永遠はあり得ません。
そのことを考えても秀吉の人生は稀有であったのは間違いありません。
死んだ後のことは見えませんから、秀吉は心残りであったとしても満足して死んでいってほしかったと思います。
親の因果子に報いと言いますから、秀頼は大変だったと思いますが、それでもこの経験は誰にでもできることではありませんから、こちらも良かったと思ってほしいですね。
人間の一生は短かったから不幸ではないと思います。
吉田松陰がいう四季の循環のように、10歳には10歳の60歳には60歳の実りある人生があるはずです。
豊臣家に対する徳川の仕打ちも単に非難しても詮無いことで立場が違えばおのずと対処も変わります。
どちらにも言い分はあるんだと思います。 (2013年05月26日 13時53分03秒)

Re[1]:秀吉没後の豊臣家 ゆかりの地を訪ねて(02/18)   gundayuu さん
ほほえみ塾さん
こんにちわ~

>確かに、卑しいと言われる身分から天下様になったのですから、凄いことだとは思います。
>しかし、
>秀吉の生きざまは私たちに多くの戒めを残してくれていると思い、感謝することも多いです。
>自分の出生を考え、
>我が子の事ひいては一家の末代までを考えると、
>驕ることなくすべきことしておくべきことはあったと思います。

本当にそうですね。
秀吉に驕りがあったということは間違いなく、それは、我々の教訓でもあると思います。
でも、秀吉に、それも北政所に早く実子が生まれていれば、かなり事態は変わったかな、とは思います。

>それが出来ないのが人間の悲しい性ですね。
>徳川家も300年以上実権を握りはしましたが、
>これも永遠というわけではありませんでした。
>このことは洋の東西を問わず権勢をふるったとしても
>長くてもたかだか数百年の事、永遠はあり得ません。
>そのことを考えても秀吉の人生は稀有であったのは間違いありません。
>死んだ後のことは見えませんから、秀吉は心残りであったとしても満足して死んでいってほしかったと思います。
>親の因果子に報いと言いますから、秀頼は大変だったと思いますが、それでもこの経験は誰にでもできることではありませんから、こちらも良かったと思ってほしいですね。

今の自分の置かれた位置しか見えないというのは、やむをえないのかも知れません。今が恵まれていると思える、、何事もポジティブにと思えたなら凄いことだと思いますが・・・。
せめて、そう思えたらと努力をしたいものです。

>人間の一生は短かったから不幸ではないと思います。
>吉田松陰がいう四季の循環のように、10歳には10歳の60歳には60歳の実りある人生があるはずです。

さすがは、松陰、良いことを言いますね。
確かに、ただ長生きするということだけでは、意味がないですよね。

>豊臣家に対する徳川の仕打ちも単に非難しても詮無いことで立場が違えばおのずと対処も変わります。
>どちらにも言い分はあるんだと思います。

秀吉も、立場が違えば同じこと、していたかも知れません。
また、家康も、老い先短くなってきて、子や孫の安泰を願い、がむしゃらになっていたのかもしれないですね。
(2013年05月26日 17時33分17秒)

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