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JINさんの陽蜂農遠日記

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2021.08.31
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カテゴリ:鎌倉市歴史散歩
『​鎌倉散策 目次​』👈リンク
【​鎌倉の寺社リスト​】👈リンク

鎌倉市大町の住宅街を東に向かって進む。



「花咲橋」を渡る。下を流れる川は「逆川(さかさがわ」。



更に進むと左手にあったのが「花ヶ谷花咲地蔵尊」。
石の祠の中に安置され、さらに屋根が懸っていた。
鎌倉市大町4丁目14−8。



扁額「花咲地蔵尊」。



「花咲地蔵尊縁起」碑が建っていた。
「嘉禄元年(1225年)足利直冬ガ祖先ノ菩提ヲ弔フタメニ此ノ谷ニ慈恩寺ヲ建立シ境内ニ
四季花ノ絶エナイヨウニ植エタノデ花谷ト呼ブ此ノ地蔵尊ハソノ境内ニ祀ラレタモノト
伝エラル昔ヨリ多クノ里人ガ親シク信仰セラレマシタ」。



大町花ヶ谷にあった慈恩寺は、足利尊氏の子直冬の菩提寺だったといわれている。
「​足利直冬​」👈リンク の生年はわかっておらず、没年は1387年とされている。
幼名は新熊野(いまくまの)。
足利尊氏の次男として生まれ、兄に竹若、弟に義詮、基氏らがいる。
尊氏が鎌倉幕府に反旗を翻した時、鎌倉にいた竹若、直冬は命の危険にさらされる。
1332年、竹若は北条の手にかかり殺害されてしまうが、東勝寺の喝食をしていたとされる
直冬は生きながらえた。そのため、実質的な長子と考えられる。

境内には、数百種の草花が植えられ、四季を通じて絶えることなく花が咲いていたため、
慈恩寺のあった谷を「花ヶ谷」と呼ぶようになった。
慈恩寺は、1323年(元亨3年)にはその存在が確認されていることから、鎌倉時代後期には
創建されていたものと考えられている。
開山は桂堂士聞という説もあるが定かではない。
花ヶ谷の花咲地蔵尊は、慈恩寺の境内に祀られていたと伝えられている。



ズームして。



祠の左後方には五輪塔が並んでいた。

まずは大町4丁目の花咲地蔵尊へ(2017.08.03) : フランス語と、鎌倉と、私と。。。

更に進むと大町4丁目にあった橋の袂にあった案内板。
真っ直ぐ進むと「​釈迦堂口切通​」👈リンクであったがここも以前に訪ねており、
現在でも通行禁止になっているようであった。
そして右に行くと「黄金やぐら」。
200m先の「黄金やぐら」に向かって進む。



「逆川」に沿って進んで行った。



前方左に青のフエンスが現れた。
事前チェックでこの場所が「黄金やぐら」のある場所と確認済み。



「黄金やぐら
「やぐら」とは、13 ~ 15世紀に鎌倉地方で流行した墓の一様式です。
やぐらの内部の水中に光ごけが発生し、のぞくと黄金色に輝いたことから黄金やぐらと
名づけられたといわれています。」
鎌倉市大町7丁目。



「凹地」の隅に「やぐら」らしきものが確認できた。



入口には雑草が生え、「やぐら」の中は確認できなかった。



そして来た道をひたすら戻ったのであった。



そして正面に「山門」らしきものが見えて来た。



「ここは妙法寺」と。



そしてここが「妙法寺」の「山門」入口。
鎌倉市大町4丁目7−4。



「妙法寺(みょうほうじ)
ここは、布教のため安房(千葉県南部)から鎌倉に入った日蓮聖人が、最初に草庵、いわゆる
松葉ヶ谷御小庵を結んだと伝えられている地です。辻説法などで他宗を批難したため草庵が焼
き打ちされた「松葉ヶ谷の法難」の場所もこのあたりであるとの伝承があります。
のちに護良親王の皇子である楞厳丸(りょうごんまる)(日叡)が、悲壮な最期を遂げた父母の
供養と日蓮聖人の遺跡を守るためにこの寺を建て、山号を楞厳山としました。本堂は、細川家
の寄進による見事な欅造りです。
護良親王の墓がある山頂からは、市街地と海を見渡せます。
● 宗  派   日蓮宗
● 山号寺号   楞厳山妙法寺(りょうごんざん みょうほうじ)
● 建  立   延文2年 (1357)
● 開  山   日蓮聖人(中興開山 日叡上人)」

「妙」の漢字が入る鎌倉市内の日蓮宗関連の寺は
妙法寺、妙長寺、妙典寺、妙隆寺、妙本寺、妙法寺(大町)、妙法寺(山崎)、妙伝寺、
妙信教会、妙法教会の十寺。
臨済宗建長寺派の寺として、妙高院、浄妙寺のニ寺 があるのだ。



「境内案内図」。


   【https://omairi.info/2018/08/29/myouhou-tpl-keidaisanpo/】より


「文学案内板  妙法寺境内
〇 汾陽(カワミナミ)昌子句碑
   鵯されば笹子しづかに来てをりし  晶子
     昭和63年8月 妙法寺四十四世日新建立
     晶子(1922年生まれ、虚子門下。青苔句会主宰)
〇 星野立子句碑
   美しき苔石段に春惜しむ  立子
     昭和58年6月 妙法寺四十四世日新建立 
     立子(1903-84、『玉藻』主宰)
〇 桃林坊・日慈・牛長句碑
     当山参詣の折柄御宝前の鏡に、富士山のありありとうつりまししを拝して
   露しぐれはれて鏡にむかふ富士  桃林坊
   小春となりの海のおだやか    当山三十三世 日慈
   松か枝のさか行月にかり寝して  二世 牛長
     嘉永元年8月 東都駒込高崎屋本店建立」



「松葉谷御小庵霊跡 妙法寺」碑。



前方右手に拝観受付。



コロナ禍の影響で閉まっていた。



臨時休業のお知らせ
本日はご参拝いただきまして誠にありがとうございます。
この度当山は、新型コロナウイルス感染拡大の防止の為、当分の間、奥の院(苔の石段等)への
観光をお休みいたします。
朱印・首題もお休みします。
参拝の皆様 檀信徒 従業員 寺族の安全を確保するための処置です。ご理解のほど、よろしくお
願い申し上げます。                  当山山主



その先の寺務所にも同様な掲示が。



汾陽(かわみなみ)昌子句碑
「鵯(ひよどり)されば笹子(ささこ)しづかに来てをりし  晶子」
昭和63年8月 妙法寺四十四世日新建立
晶子(1922年生まれ、虚子門下。青苔句会主宰)



「本堂」。
鎌倉に入った日蓮が結んだ庵は「法華堂」と称され、その後、本国寺として創建された。
その本国寺は、鎌倉幕府滅亡後、第四祖日静の代に足利尊氏のすすめによって京都に移され、
その跡地に日叡が妙法寺を建てたのだという。
現在の「本堂」は、肥後細川家が江戸時代に建立したもの。格天井や板戸の画は当時のままだと
いわれる。



鎌倉妙法寺とは、日蓮「松葉ヶ谷草庵」跡を自称している日蓮宗寺院。楞厳山妙法寺という。
日蓮の「松葉ヶ谷草庵跡地」としては、鎌倉・「安国論寺」以外にも、いくつかの説があり、
そのうちのひとつがここ鎌倉・「妙法寺」である。
見事な「本堂」の向拝の彫刻。



「本堂」の扁額「楞厳山」。



寺務所。



そして「惣門」。
この日は閉まっていた。



隙間から「仁王門」への参道、石段を見る。



そしてこの日は新型コロナウイルス感染拡大の防止の為、当分の間、奥の院(苔の石段等)への
観光をお休みとのこと。

よって、数年前の同じ時期?に訪ねた時の写真を掲載します。
「大覚殿」
「大覚殿」の内陣には、中央に釈迦如来立像、向かって左に妙法稲荷福禄大明神、向かって
右に木造加藤清正公坐像が安置されている と。
加藤清正公坐像は、もともと熊本城天守閣に安置されていたが、加藤家の後に熊本藩主となった
細川家より寄贈された と。



「仁王門」。



「仁王像」(右)。



「仁王像」(左)。



「扇塚」。
仁王門の傍らに建てられた塚。「扇塚」の字は、作家里見弴の筆によるもの。
4月には、使い古された舞扇を持ち寄って供養し、歌舞の上達を祈念する扇供養が
行われているのであるが今年も・・・・?。



「苔の石段」の斜面には、鎌倉で過ごした俳人・星野立子の句碑があった。



「美しき 苔石段に 春惜しむ 立子」。


そして「苔の石段」
仁王門から釈迦堂跡に続く石段で、苔に覆われており、このため妙法寺は別名「苔寺」、
「苔の寺」とも呼ばれる。苔の保護のため通行止めとなっており、脇に新しい階段が作られて
いるのであった。



「化粧窟」。



左に「苔の石段」、右手の「法華堂」への石段を上って行った。



「仁王門」を裏側の石段の上から見る。



「法華堂」。



「法華堂」を横から。



「日叡上人御手植えのソテツ」。



法華堂の隣、苔石段の上部正面には、釈迦堂跡があり、釈迦堂跡前を真っ直ぐ進むと
鐘楼があった。



「奥の院御小庵趾」。
釈迦堂跡左手、鐘楼脇の階段上にあり、日蓮が20数年に渡って住んだ松葉ヶ谷草庵跡とされる。



「南の方御墓」。 南の方は日叡上人の母。



「楞厳山親王日叡上人御墓」。



「日蓮聖人塔」が手前に。

画像

「護良親王(大塔宮)御墓」
後醍醐天皇第三王子であり中興開山・日叡の父である護良親王の墓。小庵趾より右手に登った
山頂にある。
なお、護良親王の墓とされるものは鎌倉市二階堂の「​理智光寺跡​」👈リンク にもあり、
そちらが正式な墓として宮内庁管理下にある。
護良親王御墓は、後醍天皇第三皇子の御墓。御年二十八と若くして亡くなってしまった。
護良親王御墓から先は行き止まりなので、階段を下り御小庵趾まで戻り更に石段を下った
のであった。



そして「妙本寺」を後にして、「安国論寺」へと向かう。
妙法寺道」の四辻の両脇には石碑が。



右に「高祖御小庵之本土」碑。



題目碑「南無妙法蓮華経」。




                              ・・・​もどる​・・・


                  ・・・​つづく​・・・





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Last updated  2022.05.19 16:19:11
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