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JINさんの陽蜂農遠日記

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2018.02.03
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カテゴリ:鎌倉市歴史散歩
『​鎌倉散策 目次​』👈リンク

この日(1/29)は寒さが和らいだので冬の鎌倉散策に出かけて来ました。

7:45に自宅を出て、小田急線、東海道線、横須賀線を乗り継ぎ、8:30過ぎにJR鎌倉駅に到着。

若宮大路(わかみやおおじ)の鎌倉駅入口の交差点を渡る。

最初に訪ねたのが大巧寺(だいぎょうじ)。

DSC02206_R.JPG

大巧寺は別名「おんめさま」とも呼ばれ、安産祈願の寺として知られている。

「おんめさま」とは「お産女様」(おうめさま)が訛った言葉。

山門を潜り境内へ。 

大巧寺はもともと大行寺と称する真言宗の寺院で、当初は十二所梶原景時の屋敷内にあった。

創建年や開山などは不明だが、源頼朝の祈願所とされた事から、鎌倉時代初期頃までには

創建されていたと推測される。この寺で頼朝が軍議を行った結果、大勝利を収めたため、

頼朝の命により「大巧寺」という名称に改名した。

文永11年(1274年)、日澄により日蓮宗に改宗する。これに基づき現在では開山を

日澄としている。

2年(1320年)現在地へ移転したとのこと。

DSC02208_R.JPG

本堂。

毎月、戌の日 及び 大安の休日には、安産腹帯守授与所は混雑すると。

境内を縦断し裏側入口から出る。

裏側にも「南無妙法蓮華経 南無日蓮大菩薩 大巧寺」と刻まれた石塔が。

そして数分歩くと、夷堂橋に到着。

正面に本覚寺山門と日蓮ゆかりの恵比寿堂が。 

夷堂橋(えびすどうばし)の石碑。

『鎌倉十橋の一にして 此辺は 往昔夷堂ありしといふ 此川 は上流にて胡桃(くるみ)川と いひ

 浄明寺門前に至り滑 (なめり)川の名あり 文覚(も んがく)屋敷と伝へらるる辺 は

 坐禅(ざぜん)川と唱へ 此 辺は夷堂川と呼び 延命寺の 傍よりスミウリ川と名つけ 

 魔(えんま)堂址の辺にては 閻魔堂川といふ』

「この橋は鎌倉十橋のひとつです。ここには昔夷堂があった と言います。この川は現在は

滑(なめり)川といいますが、 昔は場所によって多くの呼び 名がありました。

上流では胡 桃(くるみ)川といい、浄明寺 門前では滑川といい、文覚 (もんがく)屋敷跡の辺りでは

坐禅(ざぜん)川といい、この辺りでは夷堂川と呼び、延命 寺の辺りはスミウリ川といい、

閻魔(えんま)堂跡の辺は閻魔堂川といいました。」と。

夷堂橋から滑川を見る。

妙本寺(みょうほんじ)山門に向かって歩く。

妙本寺は、神奈川県鎌倉市大町にある、日蓮宗の本山(霊跡寺院)。山号は長興山。

妙本寺のある谷戸は、現在は比企谷(ひきがやつ)と呼ばれ、鎌倉時代には比企能員一族の

屋敷があったと。

ここ​妙本寺は昨年の晩秋に紅葉の穴場​👈リンク として訪ねた寺であるため

今回はパスして次の寺へ。 

比企能員邸址(ひきよしかず・ていあと) 石碑。

『能員は頼朝の乳母(うば)比企禅尼の養子なるが 禅尼と共に此の地に住せり 

 此の地比企が谷(やつ)の名あるも之に基づく  能員の女(むすめ) 頼家の寵(ちょう)を受け

 若狭局(わかさのつぼね)と称し  子一幡(いちまん)を生む 建仁三年(1203)頼 家疾(病)むや

 母政子関西の地頭(じとう:庄官)職を分ちて 頼家の弟千幡(せんまん)に授けんとす 

 能員之を憤り蜜(ひそか) に北条氏を除かんと謀(はか)る  謀泄(漏)れて 郤(反)つて

 北条氏の為一族此の地に於て滅さる』 

「比企能員(よしかず)は、源頼朝の乳母(うば)であった比企禅尼(ひきのぜんに)の養子であり、

禅尼と共にこの場所に住んでいました。この土地の名前が、比企ヶ谷(ひきがやつ)というのも

このためです。 能員の娘は頼家の妻になり、 若狭局(わかさのつぼね)とよばれて、一幡(いちまん)

という子供を生みました。1203年頼家が病で倒れると、母親でもあり、頼朝の妻でもある政子が

頼家の権力を2分して、頼家の弟千幡(せんまん)に渡そうとしました。このことに能員が怒り、

ひそかに北条氏を滅ぼそうと計画しましたが、逆に北条方に覚られ、比企一族はこの地で

滅ぼされてしまいました。」 と。

「体曲がれば 影ななめなり」と。

日蓮大聖人は『仏法は体のごとし世間はかげのごとし体曲がれば影ななめなり』と。

体である信心が確立されてこそ、その影である仕事をはじめ、世間のことも順調に進んでいく。

また、たとえ仕事で困難に直面することがあったとしても、見事に乗り越えていく力がでると。

「体」⇒「自己の内面」と読み替える自分がいたのであった。

そして妙本寺山門の右側に、「ぼたもち寺」は右に行くとの案内が。

そして2分もかからずに「ぼたもち寺」に到着。

「幕府に捕らわれた日蓮が鎌倉の町を引き回され、龍ノ口の刑場(藤沢市・龍口寺)へ送られる途中、

ここに住む老婆がぼたもちを差し上げたことが、ぼたもち寺の由来です。

日蓮は処刑を奇跡によってまぬがれますが、この法難のあった9月12日には老婆がつくったものと

同じ胡麻をまぶしたぼたもちが振る舞われます。厄除けの「首つなぎぼたもち」といわれ、

終日にぎわいます。

こじんまりとした境内にはあふれるように草花が植えられています。」

 ● 宗  派:日蓮宗

 ● 山号寺号:慧雲山常栄寺 (えうんざん)

 ● 建  立:慶長11年 (1606)

 ● 開  山:日詔 (にっしょう)

 ● 開  基:日祐法尼 (にちゆうほうに)

写真は、ぼたもち供養、「日蓮聖人龍の口法難ご絵伝」より」

鎌倉時代、この地に住んでいた「桟敷の尼」が龍ノ口刑場(藤沢市片瀬)へと護送されていく

日蓮に「胡麻入りのぼた餅」を捧げたのだ。

刑がまさに執行される時、江ノ島方面の空に光る物体が出現したために、周囲がが恐れをなして

刑は中止になった。その後、老婆が渡したぼたもちは「首つなぎぼたもち」として語られて、

この伝説から「ぼたもち寺」と呼ばれていると。

常永寺の寺号は「桟敷の尼」の法号「妙常日栄」にちなんだもの。

DSC02233_R.JPG

ぼたもち寺 山門。

「たつのくち くびれおんざを ふしおがむ 婆のまごころ ぼたもち 常栄寺」と。

「ぼたもち寺」と。

立派な門扉には、家紋の「橘」(日蓮宗の寺紋)と「笹竜胆」(源氏の家紋)が飾られていた。

「橘」(日蓮宗の寺紋) 

x_R.jpg

「笹竜胆(ささりんどう)」(源氏の家紋)

こぢんまりとした境内の先には本堂が。

更に近くによって。 

本堂の扁額「現無量神力(無量の神力を現じたもう)」。

法華経の一節であると。

鎌倉Today - 鎌倉好き集まれ!(鎌倉ほいほいさん 第229号)

境内社。 

境内社の稲荷神社。

本堂向かって左側境内庭に建っているのが、開基である「日祐法尼」の墓。

桟敷の尼夫妻の墓。

「これやこの 法難の祖師に はぎのもち ささげしあまが すみにしところ  塚本柳斉詠 梅香書」

と刻まれている石碑。

ぼたもちと日蓮の逸話が本堂前の壁に掲載されていた。 

裸馬に乗せられて引き回されている日蓮に、ゴマ餅を捧げる桟敷尼の絵。 

田中優子女史画 『ぼたもちでら常栄寺縁起』と。

「首つぎの おはぎを祖師に 供養せし 信と勇とを 仰がんいざや」 

「これやこの 法難の祖師に はぎのもち ささげし尼が すみにしところ」 

境内の紅梅が咲き出していた。

そして次に八雲神社を訪ねる。

石の鳥居には立派な注連縄が。

昔は鎌倉祇園社や祇園天王社などと称したが、明治維新に際して現社名に改称したと。

厄除け開運の神社としても知られており、地元では「八雲さん」や「お天王さん」などと

呼ばれ親しまれている神社と。

左手に寛文10(1670庚戌)年の銘のある庚申塔が。

昭和40年に鎌倉市有形民俗文化財に指定されたと。

永保年間(1081年~1084年)の創建で牛頭天王を祀る祇園信仰の神社として

鎌倉幕府の誕生以前から続く長い歴史を持っていると。

祭神は須佐之男命(すさのおのみこと)、稲田比売命(いなだひめのみこと)、

八王子命(はちほうじのみこと)。

新羅三郎「手玉石」。

近江の国で元服したことから、新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ)の名で呼ばれていると。

平安時代後期の武将で、河内源氏の二代目棟梁源頼義の3男なので、源義光とも呼ばれると。

八幡太郎義家や加茂二郎義綱の弟にあたると。

新羅三郎義光の子孫は、武田氏、佐竹氏、小笠原氏、南部氏と発展。

応永年間(1394年~1427年)、新羅三郎義光の子孫、佐竹氏の霊祠を合祀したと。

右から

諏訪神社:祭神は健御名方神

稲荷神社:祭神は宇迦之御魂神

於岩稲荷社:祭神は田宮於岩命。

宝物庫内の神輿。

社宝として江戸時代のもとのいわれている、神輿が4基展示されていた。

他にも、剣、銅鏡、猿田彦神の面、瓦、陶器、薬研など、多数の宝物が陳列中。

ガラス張りになっているので、ガラス越しに自由に見学することができた。 

天水盤。

武州鋳物師の鈴木文吾が惣型法によって鋳造された天水盤。

鈴木文吾は大正10年に生まれ、「伝説の鋳物師」、「現代の名工」などと呼ばれる鋳物師。

2007年には川口市文化賞を受賞。父の死を乗り越えて造り上げた東京国立競技場の

聖火台の物語は、半世紀を過ぎた現在も多くの人に語り継がれ、「伝説の鋳物師」と称される

原点となったと。

社務所。

未だ巫女の姿はなし。 

いずれの神社、寺院も以前訪ねた折御朱印をいただいているので今回は無し。 

 

             ・・・​つづく​・・・ 






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Last updated  2022.05.19 15:02:41
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