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2014.05.20
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カテゴリ:食品
一夢庵 怪しい話 第4シリーズ 第890話「豆腐の角に3」

 豆腐が何時ごろ日本に渡来したのか?に関しては諸説あるのですが、一番遅い時期を採用しても奈良時代になり、概ね、”仏教が伝来した飛鳥時代の頃”ではないかという説に人気があるようです。

 その辺り、大陸から仏教の僧侶(か、その関係者)によってもたらされたという説で、実際、日本の豆腐製造技術の伝播に、奈良→京都→江戸という流れがあり、平城京で普及していた豆腐の製造技術が遷都によって平安京が都(首都ですな)になると移住した僧侶によって平安京に伝播し、平安京で洗練された豆腐の製造技術が江戸時代の初期に江戸に京都から移住した豆腐職人によって伝播して江戸の豆腐製造技術の水準が上がったことは比較的知られた話になりますが、時代が下がるほどに複数のルートで情報や技術が拡散するようになる傾向があることは御存知の通り。

 視点を変えると、肉食を禁じられていた僧侶の場合、主要な蛋白源が豆類か乳製品になるわけですが、日本の場合は乳製品の摂取も肉食禁止令で禁じられることが多かったこともあって、豆類しか(少なくとも表面的には)蛋白源として残らなかったため豆腐を含めて豆を使った料理が発展し、さまざまな肉の代用品や”もどき”食品が開発されていった歴史もあります。

 また、素直に大豆を煮たり茹でたりして食べても大差が無いだけに、大豆を手間をかけて豆腐に加工することを”贅沢”と為政者が考えると、江戸時代初期のように農民が豆腐を作ることを禁じていた時期もあるくらいですが、もちろんというかそういった禁令の類が守られることは稀ですし、なし崩し的にというか現状を追認する形で公認されていったようです。

 江戸時代に限った話ではないのですが、実は豆腐一丁の重さや豆腐のサイズには定型が無く、これを書いている時点でさえ、スーパーマーケットなどで一丁ずつ小分けにされて大量に販売されている大手メーカー製にしても300~350グラムくらいの幅がありますし、昔ながらの町の豆腐屋さんの豆腐にしても木綿豆腐で414グラム前後、絹ごし豆腐で355グラム前後といったあたりになっているようです。

 ましてや江戸時代初期の江戸の町の豆腐ともなると、現在の豆腐屋さんの木綿豆腐の4~6倍くらいの大きさが一丁の大きさとしては主流だったようで、江戸時代の”職人尽絵詞”で描かれている豆腐も人の頭くらいあるサイズになっているのですが、1500年頃に描かれた”七十一番歌合”の豆腐売りの絵などではもう少し大きいサイズのように見受けられます。

 価格としては、少し後の話になりますが、蕎麦が一杯16文で売られるようになった頃の豆腐一丁の値段が50~60文程度ですから安価とは言いがたく、そのためか四分の一丁(まあ、これで現在の一丁と同じかやや大きいサイズになるのですが)という豆腐の売り方も普及していて、四分の一丁だと価格的にも蕎麦一杯と大差の無いところまで下がることになります。

 それはそれとして、室町時代と江戸時代の豆腐の違いとしては、室町時代までの豆腐はかなり堅かったようで、後世のように水に漬けて移動時の崩れや乾燥、あるいは腐敗を防ぎながら売るのではなく、店頭でまな板の上に乗せて切り売りしていたとされるのですが、逆に言えば、堅い豆腐は崩れにくく日持ち(というか時間持ち)もしていたということで、実際、江戸時代以降も田舎で製造される豆腐の中には柔らかく造ることで向上する口当たりのよさよりも日持ちなどを優先したためか、荒縄で縛って運べる強度を誇る(いわゆる”岩豆腐”や”石豆腐”の類の)豆腐が実在していますし、高野豆腐や凍み豆腐の類にしても、極寒中、紐で縛って軒先などに吊るしておいたのが始まりのようですから、現在の豆腐一丁の重さというのは、そういった保存加工に適したサイズに小分けした際の一丁が基準になっている気がしないでもありません。

 もっとも、豆腐の田楽や味噌汁の実の豆腐などのように、最終的にはもっと小さく切り分けてしまうわけですから、一度に食べるオカズとして適当な量というあたりで現在の一丁くらいに収斂したという気もしてきますが、そもそも論として、大量消費する豆腐料理専門店と個人の一丁のサイズとは分けて考えた方がいいのかもしれません。

 例えば江戸時代の江戸の町には木の芽田楽や味噌田楽などを食べさせる田楽屋がそこかしこで営業していたようですが、仕入れは大きいサイズの方が手間がかからないと思いますが、仕込みや調理の段階で、豆腐を短冊形に切ってからそれに串を打って、味噌などを塗って焼いていくわけですから、いくら水切りをして堅さや弾力を調整したとしても、そもそもの堅さと弾力がある程度無いと加工に耐えられないというか焼いている途中で崩れたり、串を打つ段階で崩れたりしかねないことも確かな話になるだけに、そのあたりから逆に豆腐の堅さや弾力、大きさなどを小売する際の上限が決まったのかもしれません。

 怪しい話においてもしばしば登場している”豆腐百珍(天明2(1782)年)”という豆腐料理のレシピ本が、江戸時代屈指の大ベストセラーとなり、いわゆる”百珍もの”と称される他の食材を使った後続のレシピ本もヒットしたことが知られているのですが、そういった百珍ものの筆頭に豆腐が登場したということは、当時の江戸庶民の感覚でも日々のお菜として豆腐がかなりポピュラーで、既に定番になっている食べ方だけだと食べ飽きてしまうくらいだったと考えると辻褄が合ってくるかなと。

 つまり、貧乏長屋の住人達でも豆腐が手軽に調達でき、日常のオカズにできる程度に安価な食材になっていたからこそ、”少し手を加えると食べなれている豆腐もこれこのとおり絶品メニューに~”というあたりが豆腐百珍がヒットした主因だったのではないか?ということで、後続の数々の百珍ものにしても世界三大珍味のような入手困難な食材や高値で手が届かない食材ではなく、既に日々のオカズに用いられる食材として定番になっていたものであることには留意が必要という程度のことです。

 ちなみに、江戸時代初期の江戸の町で豆腐といえば木綿豆腐が主流だったようですが、”豆腐百珍”の頃には絹漉し豆腐が知られていたようで、豆腐百珍にも絹漉し豆腐の料理が収録されているのですが、柔らかい豆腐ほど崩れやすく、そういった豆腐を運ぶ知恵として桶に入れた水に漬けた状態で運ぶ方法が開発されたとしても不思議では無いのですが、包装材にプラスチックやビニールの類が普及するまでは、豆腐を買いに行くときには専用の桶やボールといった容器を持参するのが常識というか日々の光景だったことは、まあ、昭和40年代半ばくらいまでの記憶がある人には解説不要な話かもしれません。

 というか、これを書いている時点でも、小分けにした容器に水を充填して(水をクッションの代わりにして)豆腐の破損を防ぐ工夫は健在で主流と書いてもいいと思いますが、その一方で、”充填豆腐”ということで、容器に隙間のできないように豆腐を充填して密閉し固める製造方法も普及していて、どちらかといえば充填豆腐の方が手間がかからず安価に製造できるようです ・・・ まあ、加工過程で豆腐を膨らませる発泡剤の匙加減の方が価格というか利益率には反映しやすいようですが(黒い笑)。

 そういえば、気軽に木綿豆腐という呼称を使っているのですが、そもそもの古代の”木綿”といえば極論すれば木の皮のことで、現在だとお札の材料などで知られる楮(こうぞ)の皮からとった繊維でありそれで織った布のことになり、”コットン”で知られる木綿に関しては、平安時代の末に宋との貿易で少量が大陸から輸入されていた程度ですから木綿豆腐という呼称が、楮の皮の方なのかコットンの方なのかは実はかなり微妙な話になります。

 コットンの方の木綿の国産化に成功したと考えられているのが15世紀の末から16世紀にかけての話で、関東にまで伝播した記録も16世紀初頭くらいからになるようですが、やはり栽培が盛んになり全国規模で流通するには社会の安定化が前提になったようで、木綿の衣類が庶民にも(それが古着であったとしても)普及するのは江戸時代に入ってからと考えてよさそうです。

 その辺り、絹漉し豆腐の”絹”の方が手触りなどはコットンよりよほど古くから知られていながら、豆腐の種類としての絹漉し豆腐が全国区になるのは、加工に手間と技術が必要なこともあってか明治以降の話になったようで、それだけに奈良時代から木綿豆腐とか絹漉し豆腐といった名称が一般化していたとは考えにくいところがあります。

 また、日本の場合、朝廷の宗教儀式がらみでも鶴包丁にみられるような真魚箸と包丁だけを使って手を触れずに一定の作法に従って食材をさばく”包丁式”と呼ばれる作法があり、包丁道(ほうちょうどう)として現在でも継承されていて、神社の中には儀式として行っているところもありますが、遅くとも室町時代の末くらいには成立していた技術や概念のようです。

 もっとも、包丁道もまた天下泰平になって様式化が進んだようで、江戸時代も後半の19世紀頃になると、堂上公家四条家の関係者各位によって”包丁道”が整備され、その由縁や来歴、盛り付けなどを含む料理法の秘伝や口伝、料理の際の被服や道具類の指定、技術を継承するための門弟制度や規律などなどが定められていったようですが、基本的に男性しか関われなかったことは言うまでもありますまい。

 京都などには御所関係など庶民を相手にしていない分野もあったということにもなるのですが、江戸時代に入って料理本の類が発刊されいろいろな料理法が一般人にまで知られるようになっても、豆腐百珍でさえもプロの料理人を念頭にしていると考えられる難易度の高い料理が含まれていたり、調理手順、食材、調味料の記載はあってもそれらの詳細な分量の記載は皆無に近く、その辺りは実際に調理する人の工夫次第となっているあたりから料理の専門家を前提にしているという指摘もあります。

 が、江戸の町のあちこぢで暇をもてあまして料理番付の類が作られるようになったり、レシピ本を片手に物好きな素人が自炊を試みるようにもなっていったからこそ、百珍系の料理本がベストセラーとして知られるようになったわけですし、料理人が少なく技術水準も低かった江戸時代初期の料理本で、料理先進地の近江、伊勢、三河のあたりの料理を前提にしている”料理物語(1642年頃)”の頃と、それから百年以上経過して代表的な江戸料理の幾つかがその前後に普及が始まった時期の”豆腐百珍(1782)”の頃を同列に語ることには無理があるというくらいのことは書いていいような気が(私は)しています。

初出:一夢庵 怪しい話 第4シリーズ 第890話(2013/12/09)





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Last updated  2014.05.20 09:32:54
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