『そうはいかねぇな、俺の子を身籠ってる女を捨てる訳にはいかねぇよ。』
土方の言葉に、アンドレイの顔が怒りで引き攣った。
『本当なのか、チヒロ?』
『・・ごめんなさい。』
千尋はそう言うと、アンドレイを見た。
『チヒロ、それなら尚の事この男の元にお前を置いてゆく訳にはいかないな。僕とロシアに来て貰おう。』
アンドレイは千尋の手を掴むと、土方に背を向けて歩き出そうとした。
だが土方も千尋の手を掴み、アンドレイから彼女を取り戻そうとする。
『貴様、何のつもりだ!妹を離せ!』
『こいつは俺のもんだ!』
自分を挟んで罵り合う2人の男に、千尋は怯えた。
『アンドレイ、やめないか!このような場で見苦しい!』
貴族達が騒動を遠巻きに見ている中、顎ひげを蓄えた軍服姿の男が彼らの元へとやって来た。
『父上、この男は悪魔です!この男から一刻も早くチヒロを引き離さないと!』
『アンドレイ、お前の気持ちは解るが、このような場で感情を剥き出しにして叫ぶな。少しは冷静になれ。』
『ですが父上・・』
アンドレイの言葉を手で制し、男は千尋を見た。
『君が、わたしの娘なのか。』
男―ミハイロフはそう言って15年間生き別れていた娘を抱き締めた。
『あの・・あなたがわたくしのお父様なんですか?』
『そうだよ、チヒロ。』
千尋はじっとミハイロフを見ると、彼は巨体を震わせ泣いていた。
『済まなかった。わたしが不甲斐ないばかりに、お前を迎えに行けなかった。こんなわたしを許してくれ、チヒロ。』
(この人が・・わたくしのお父様・・)
『お父様!』
『チヒロ、わたしの娘!』
ミハイロフは巨体を揺らしながら、15年間離ればなれとなっていた娘を抱き締めた。
『君が、トシゾー=ヒジカタだね?』
『ああ。言っておくが、千尋は渡さねぇよ。』
ミハイロフと土方との間に、険悪な空気が漂った。
『そうか。では後日、今後のことで話し合うとしよう。アンドレイ、行くぞ。』
アンドレイは憎々しげに土方を睨み付けると、父親の後を慌てて追った。
「旦那様、奥様が産気づかれました!」
「そうか・・今から軽井沢に向かう、車回せ!」
「それは無理です。大雪で交通が麻痺している状態です。」
「畜生!」
土方が東京で歯痒い思いをしている頃、軽井沢のサナトリウムでは、総美は新たな命を懸命にこの世に産みだそうとしていた。
「後少しです、頑張ってください!」
「ぎゃぁぁ~!」
総美は懸命に最後の力を振り絞った。
「元気な女の子です!」
医師が白い清潔なシーツにくるまれた赤ん坊を総美に見せると、彼女は娘の髪をそっと撫でた。
「椿・・お母様を許してね。」
総美はそう呟くと、意識を失った。
「総美、しっかりしろ!」
「あなた・・今まで、ありがとう・・」
軽井沢のサナトリウムに土方と千尋が駆けつけた時、総美は虫の息だった。
「千尋さん・・総ちゃんと椿をお願いね。それと約束を・・」
「解りました、奥様。わたくしが坊ちゃま達と旦那様をお守り致しますから・・」
「ありがとう・・今までごめんなさいね・・」
総美はそう言って2人に微笑むと、ゆっくりと目を閉じた。
「総美、目を開けろ、総美~!」
1898(明治31)年2月7日午後3時45分、土方総美永眠。
最愛の夫と、長男・総司、長女・椿を残し、24歳の生涯を終えた。
総美(さとみ)さんが亡くなり、千尋の心にある決意が。
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