『もうすぐ着くよ。』
兄・アンドレイにそう言われ、千尋は俯いていた顔を漸く上げた。
船で日本から離れ、20日間の船旅の末、彼女は初めてロシアの土を踏んだ。
これから、父とその家族―彼の正妻とその子ども達と会うのかと思うと、千尋の胸は不安で張り裂けそうだった。
(旦那様・・)
千尋は目を閉じ、歳三の笑顔を思い出しながら、彼が贈ってくれたナイフをそっとドレスの上から撫でた。
土方家を出る際、ナイフを歳三に返そうと思っていたが、彼からの贈り物を蔑ろにしたくはなかったので、常に身に付けていた。
『大丈夫だ、チヒロ。わたし達がついてる。』
『お父様・・』
そっと肩を叩いてくれたミハイロフの笑顔に千尋は励まされた。
やがて3人を乗せた馬車は、サンクトペテルブルク市内の目抜き通り・ネフスキー大通りを走り、ロイヤルブルーの外壁に彩られた貴族の邸内路へと入っていった。
『お帰りなさい、あなた。アンドレイ、長旅ご苦労様だったわね。』
『ただいま戻りました、母上。』
3人が馬車から降りると、ミハイロフとアンドレイに1人の女性がそう声を掛け、彼らに交互に抱きついた。
『オリガ、帰ったよ。』
ミハイロフはそう言って妻・オリガを抱き締めた。
オリガは夫と息子に微笑んだ後、彼らの背後に立っている金髪の少女に向けて険しい視線を送った。
『あなた、あの子は?』
『オリガ、紹介しよう。チヒロだ。チヒロ、この人はわたしの妻、オリガだ。』
千尋は刺すような視線を送る亜麻色の髪の女性に向かって、頭を下げた。
『初めまして・・奥様・・』
『ふん、礼儀は弁えているようね。あなた、長旅でお疲れでしょう? あなた達の為に早めに夕食にいたしましょう。』
『ああ、それがいいな。』
ミハイロフとアンドレイ、オリガは和気藹藹とした様子で邸の中へと入ってゆき、千尋は彼らの後に続いた。
父の正妻であるオリガが、愛人の子である自分を歓迎する筈がないことくらい、解っていた。
今すぐにでも日本に帰りたい―千尋はそう思い始めたが、歳三への想いを無理矢理断ちきった。
(わたくしはここで生きてゆかねば。どんなに辛くても。)
千尋がダイニングに入ると、そこには長方形のテーブルに、ボコスロフスキー伯爵家の者達がそれぞれの席に着き、じっと千尋を見つめていた。
『あなたはあちらよ。』
オリガが繊細なレースで作られた扇で指したのは、ミハイロフとアンドレイからは遠い席だった。
『はい・・』
千尋は椅子に腰を下ろすと、オリガの近くに座っている老女がジロリと緑の瞳で彼女を睨んだ。
『その子が日本娘との間に出来た子かい?』
『はい、お義母様。』
『ふん、器量よしで良かったね。ミハイロフに似ていたら、見るに堪えない醜女だろうと思っていたがね。』
老女の言葉に、千尋はこの家から歓迎されていないことが解り、急に息苦しさを感じた。
神への祈りを捧げた後、伯爵家のメイド達が料理を運び、後ろに控えていた男達が一族の者達に給仕し始めた。
彼らの前に置かれたのは牛の血肉が滴る熱々のステーキや、季節の食材を使った贅を尽くした料理であった。
千尋は冷ややかな空気の中、ナイフとフォークを使いながらステーキを食べ始めた。
『まぁ、乱暴な食べ方をするのかと思ったら、ちゃんと食べられるのねぇ。』
千尋の向かいに座っていた女性が、蔑むような視線を千尋に送りながら、馬鹿にしたように言うと、スープを一口啜った。
『おやめ。お前がスープを煩く啜る音は聞くに堪えないよ。』
老女が女性を一喝すると、彼女は怒りで顔を赤くして俯いた。
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