「おお、済まねぇな。」
歳三が財布を拾ってくれた人に礼を言おうとして振り向くと、そこには薄紫のドレスを纏った女性が立っていた。
西洋で作られた高価なドレスを着ているということは、華族か身分の高い女性だろうと、彼は一目見て解った。
「あなた、お名前は?」
「俺か? 土方・・内藤隼人だ。あんたは?」
「わたくしは・・」
「お嬢様、こんなところにいらっしゃったんですか!」
侍女と思しき小袖姿の女性が、歳三達の方へと駆け寄ってきた。
「さようなら、内藤さん。お会い出来て嬉しかったわ。」
女性はそう言うと、歳三に手を振り、侍女とともに朝靄の街を去っていった。
「お帰りなさいませ、旦那様。」
「巽はどうした?」
「あの子なら寝ましたわ。わたくしはこれからお仕事へ参りますから、巽の世話を宜しくお願い致しますね。」
「ああ、解ったよ。」
「では、行って参ります。」
千尋はそう言うと、歳三に頭を下げて長屋から出て行った。
歳三の仕事は羅卒(警官)で、非番の日が少し多いため、千尋は最近華族の家で仕立ての仕事や家庭教師の仕事を始めた。
幕末では歳三とともに京の都を血で染めたと言っても過言ではないほどの剣の腕で、それと同時に漢詩や和歌、茶道、華道、外国語などに精通していたので、巽を授かる前は礼法や薙刀の教師などをしていたが、巽が生まれてからは自宅でも出来る仕立ての仕事へと転職した。
稼ぎの悪い自分の所為で、千尋には苦労をかけっぱなしだ。
新選組の元副長という立場は、この明治の世になっては邪魔でしかない。
羅卒になれただけでもまだマシで、武士であった者は商売を始めても上手くゆかず、橋の下で寝泊まりするようになってしまった者が居たりしていた。
歳三は溜息を吐きながら、ふと壁に掛けている愛刀を見た。
そこには、激動の世を共に過ごした兼定が、朝日を受けて鞘が艶やかに光っていた。
京の都で歳三は、兼定を腰に提げ、数々の敵を切ってきた。
羅卒が扱うのは西洋製のサーベルで、歳三は特別に愛刀の携帯を許可して貰っているが、新しい時代へと静かに動いている中、いつまで愛刀を使えるかどうかも解らない。
(巽が大人になる頃は、どんな世になってるかな・・)
幕末から明治へと激動の世を駆け抜けてきた歳三にとって、巽の未来には争いのない世になって欲しいと、歳三は密かに願っていた。
「内藤さん、居るかい?」
長屋の外から男の声が聞こえ、歳三はさっと立ち上がって戸を開けた。
そこには、同僚の芦田が立っていた。
「どうした、何か用か?」
「実はよぉ・・平野重太郎ってやつが内藤さんのことを探っているらしいんだ。」
芦田の言葉に、歳三の顔が険しくなった。
今や藩閥政府の重役として活躍している平野重太郎だったが、幕末では薩摩の過激派浪士として名が知られ、歳三は何度か彼と斬り結んだことがあった。
「何で下っ端のしがない羅卒の俺の事を探ってるんだ? 明治政府のお偉いさんが。」
「さぁな。でも用心した方がいいぜ。」
「解った。」
芦田が長屋から出て行った頃、千尋は小瀬子爵邸で子爵家の一人娘・椿に筝の稽古をつけていた。
「よろしゅうございますよ、お嬢様。本日はここまでにいたしましょう。」
「ありがとうございます、先生。」
椿はそう言って千尋に頭を下げた時、部屋に子爵夫人がサラリと衣擦れの音を立てながら入って来た。
「千尋さん、いつも椿の稽古をつけてくださってありがとう。少しお話があるのだけれど、よろしいかしら?」
「はい、奥様。」
子爵夫人に連れられ彼女の部屋に入った千尋は、ソファに腰を下ろした。
「お話とはなんでしょうか、奥様?」
「ねぇ千尋さん、お恥ずかしいのだけれど・・わたくしにも、洋裁を教えてくださらない?」
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