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カテゴリ:科学・言語
娘: ねえねえ、リンゴってどうして木から落ちるの? 娘: ふーん、でもどうして地球はそんなにみんなを引っ張ってくれているの? 冒頭から、いきなり 「いい話」 をしてしまった。ま、それはともかく、17世紀にニュートンが空間を超越して作用する 「万有引力」 という概念を発表したとき、機械的な世界観をよしとする、フランスなどの一部の合理主義者からは 「神秘主義」 の復活ではないのか、という批判を受けたそうである。 実際、通常の力というものは、互いに接触することで相手に力を及ぼしている。紐で結ばれているわけでもないのに、互いに引っ張り合う力というのは、よく考えてみれば不思議なものである。それは、相手の体に触れることなしに相手をふっとばすという、気功師の発する 「気」 というようなものにどこか似ている。 同じようにニュートンがまとめた 「慣性の法則」 にしても、物質を生命を持たない死んだものとみなす機械論的世界観の持ち主からは、やはり一種のアニミズム的で神秘主義的なものに見えたのかもしれない。空間の中を浮遊しながら互いに力を及ぼしあっているというニュートンの物質観には、たしかにドイツの神秘主義者であったベーメの 「物活論」 的な思想に通じるものがある。 さて、この不思議な引力というものの正体が、現在どこまで解明されているのかは、専門家ではないからよく分からない。自然界に存在する様々な力の統一を目指した、かのアインシュタインは、重力波なるものの存在を予見していたそうだが、その存在を示す直接的な証拠は、残念ながらまだあがっていなようだ。 ところで、ニュートンという人、今でいうこっくりさんのような降霊術に凝っていたらしい。エンゲルスの 『自然弁証法』 によれば、晩年のニュートンは予言書として知られる 「ヨハネ黙示録」 の解釈に懸命になっていたそうだ。まあ、それはともかく、そういった彼の傾向が、「万有引力」 という一種トンデモな発想を可能にしたということはあるのかもしれない。 また、電気や磁気などの現象に関する初期の研究者の中には、錬金術師として有名なパラケルススのような神秘主義者の影響を受けた人たちも多かった。たとえば、18世紀オーストリアの医師であったメスメルが提唱し、当時一世を風靡した 「動物磁気」 治療というのも、今から思えば一種の 「疑似科学」 のようなものである。 しかし、科学者というのも、われわれと同じごく普通の人間なのであるから、このような不思議な現象だとかについて研究しているうちに、いろいろと変な方向に想像力を刺激されたり、妙な名声欲などにかられたりして、結果的に道を踏み外してしまった人がいたとしても不思議ではない。 そういうわけで、近代科学の歴史を見ると、一種 「トンデモ」 な発想や関心から画期的な理論や成果が生れたという例も珍しくはない。また、とりわけ不確定なことが多い、発展途上の分野などでは、しばしば科学的な思考と非科学的な思考とが混在したりもするものだ。 いうまでもないことだが、想像力というものはどんな人間の活動にも欠かせないものである。だが、そのような発想や想像から生れたものが、科学として整備されていく過程は、同時に、その中から不純な夾雑物が除去され、合理的な理論として純化されるという過程でもあるだろう。 近代化学が、「賢者の石」 を求めた中世の錬金術から発生したという話は有名だが、その意味では、近代以前の思想と近代の科学とは、確かにいろんなところで結びついている。だが、だからといって、現代に錬金術を蘇らせようなどという人は、たぶんいないだろう。 まっとうな科学と、そうでない科学との間に明確な線を引くことは困難であり、現実的には不可能なことでもある。それは、ときには複雑に絡み合っていることもあるし、どんな科学だって、最初から完全な形で現れるわけはない。それに、サルトルを批判したさいにレヴィ=ストロースが言ったように、未開人の思考と近代人の思考の間に、決定的な差異や対立があるわけでもない。 「水伝」 のような馬鹿話はともかくとして、ちゃんとした教育を受けた人であっても、ちょっとしたことで道を外れることはじゅうぶんにありうることだ。「科学」 を装ったオカルト話はそこらじゅうに転がっている。要するに、世の中というもの、いつの時代であれ、落とし穴はどこにでもあるのであり、そのような危険から免れている者などは一人もいやしない。 であるから、われわれ一般庶民としては、とりあえず、難しい話は専門家に任せるとしても、結局は 「科学」 とか 「科学的」 とかいう言葉を安易に持ち出したり、それらしく見せようとしている人々らを、軽率に信じ込まないということが一番必要なのだろう。そして、それこそが、本来の科学的な批判精神という言葉の意味にも適っているはずである。 なんであれ、安易でお手軽な道ばかりを選ぶことは、素朴な善意のみを頼りとすることと同様に、 「地獄」 へ通じる近道なのでもある。
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トンデモ本みたいな「擬似科学」を繰り返して問題にされる心境が、いち読者としては悲しいところです。ですが、あーだろこーだろと、いろいろ「トンデモ」な仮説を立てて論じたり聞いたりするの、どちらかというと好きな方なんです。知的な遊びとすら考えていますから。ところで、証明されない仮説、まだ公になっていない意見は、それだけで「トンデモ」です。正しさを判定するコードが欠けています。
ただ、自分の意見が「ひとつの仮説」にすぎないと知っておく必要がありますよね? これ、認識論的には、提出した意見への内省的な(科学的)批判力というより、自分を見つめる自分、次数の高い自分の問題じゃないかと思えるんですが。自分の仮説を「真理」と思い込む人は、とても危険です。ストーカーの一種。周りの人々にもそうですが、その人は自分を不幸に陥れると思われます。 自分の仮説にとらわれると、不思議ですけど「現実」が「世界」が、そのように見えてきたりします。自然科学以外の、たとえば歴史にしても政治や宗教、政治にしても実験しにくい特徴がありますから、なおさらです。人って、いつも自分を仮説として「しっかり」生きる必要があるかも知れません。 (2008.01.24 08:59:15)
わどさん
えーと、トンデモ話はわりと好きなんです。世の中あえて「トンデモ」なことを言う人というのも必要ではありますね。内田さんなんかは、たまにそういう役を買って出ているように見えます。 たぶん、内田さんに批判的な人というのは、そういう学者にあるまじきところが許せないのでしょうが、そこは知性の裏付けがあるかどうかの違いなのでしょう。 それに、こんなことを言ったら「トンデモ」扱いされやしないかなんてことを心配してばかりいるのも詰まんないことではあります。確かに、「トンデモ」から駒というようなこともなくはないですしね。 >自分の仮説を「真理」と思い込む人は、とても危険です。 >自分の仮説にとらわれると、不思議ですけど「現実」が「世界」が、そのように見えてきたりします。 陰謀論にしろなんにしろ、「トンデモ」話にはまり込んでいる人というのは、まさにそういう人なんです。彼らにとっては、まさにそれは疑いようのない「真理」なのですね。 (2008.01.24 11:01:19)
わどさんの仰る、仮説を「真理」と思い込むところから「陰謀論」が生まれると私は考えています。これを私は、「仮説がドグマに変わると陰謀論になる」と表現しています。仮説を立ててそれを検証し、事実が仮説と合わなかったら仮説を修正する、というのは自然科学、社会科学に限らずいろんな状況で成立するまっとうな方法論ですよね。「水伝」の議論で出てきた「いい話だからいいんじゃない」という論法は、仮説の検証を禁止するものだと思います。また、仮説を疑う(批判する)人に対し、その批判に答えず、「アメリカ(ユダヤ)の手先じゃないか」などと勘繰る陰謀論者たちは、カルトの世界の住人だといえるでしょう。
(2008.01.25 12:16:00)
kojitakenさん
もうひとつ大事なのは、それが真理としての蓋然性を有する「仮説」になりうるだけの合理性を備えているかどうかでしょうね。 「トンデモ」学説を主張する人たちは、しばしばシュリーマンのトロイ発掘やウェゲナーの大陸移動説などを、その時代にトンデモ説であるかのように言われた主張が後に立証された例として出しますね。 たしかに、彼らの主張は当時「非常識」扱いされたものです。常識の壁というものはいつの時代にも厚いものであり、それを破るのは困難なことでもあるのですが、昨今の「トンデモ」論者たちは、どう見ても彼らのように自説の正しさを立証するためのまともな努力をしてはいませんね。 (2008.01.25 14:54:34)
トラックバックが通らないのでコメント欄で代用します。
「科学とは何か」 http://okrchicagob.blog4.fc2.com/blog-entry-179.html (2008.01.30 01:08:42)
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