おかげさま
お久しぶりです。学生時代の指導教官が、「時代の限界」という概念を教えてくださいました。『龍馬伝』の台詞に感動するように、時を超えて変わらぬ真理もあるけれど、その時代には見えなかったものが、見えるようになる時代もある。 卑近な例で恐縮ですが、私は未だ、 携帯電話を使いこなせないですし、今の流行の歌も番組も知りません。 それは、私が自らつくっている「世代の限界」でしょう。さらに、「地域の限界」とでも言いましょうか。地域による価値観の差を、痛感させられております。今の職場では、当番制で、戸締りをしてまわります。そのお当番の方に、「ありがとうございます」とお声かけしたところ、大先輩から、「やっぱり、あなたの言葉遣いはおかしい」と、ご指導いただきました。その前日にも、私ができないことをしてくださっているその先輩に、「お願いします」と言ったところ、その先輩には、かなり不快な言葉だったそうです。そんな失敗を重ねてしまってから、数日間、自省しました。私は、社会人として働いた経験が、神戸の下町や、その近郊の漁村だけでした。神戸の中でも、芦屋に近いハイソな地域は、京都に近い印象があります。けれど、下町や漁村では、言葉はきつくても、腹に一物抱えていないと言いましょうか。裏のない、安心感がありました。先輩を不快にさせている猛省の中から、以下のことを発見しました。私が過ごさせていただいた下町や漁村では、お互いに支え合って生きていた歴史のなかで育まれた、「おたがいさま」の感覚が残っているのかもしれません。だから、今の自分にできないことを誰かがしてくれていたら、「ありがとう」と、口にしていた。でも、今、私のいる環境では、その「ありがとう」が、「あなたのためにしているわけではない」と、不快を与えるようです。私は、自分が周りの人たちに不快を与えているなら、職を辞すべきかと悩みました。そんな私の感覚を、先輩方はまったく理解できないそうです。社会のお役に立てないのであれば、その場を去るべきだと、無意識に思っていた自分に気づかされました。幸いなことに、私は「政治的市民」について考える時間をいただいたり、それに関する著述に接する機会もいただきました。地域差、価値観の差であり、優劣はありません。でも、どれだけ自分がお役に立てるか。そんな視点をいただけた、とても恵まれた環境に生きてきたことに改めて感謝しました。久しぶりにぽちっと応援ありがとうございますにほんブログ村