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意外な戦史を語る~  カモメとウツボのメクルメク戦史対談

意外な戦史を語る~ カモメとウツボのメクルメク戦史対談

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2006.08.04
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(カモメ)「回想の将軍・提督」(潮書房)の中で岩田正孝氏(元陸軍中佐・井田正孝氏)は、阿南陸相が義弟竹下中佐に口述した遺言の中の「米内を切れ」という言葉について述べていますね。

(ウツボ)そもそも、阿南陸相と米内海相は互いに信頼しあっていた。

(カモメ)昭和20年8月9日まではね。だが阿南は二回の米内海相の裏切りで苦汁を飲んだ。

(ウツボ)そう、苦い思いをした。第一回目は8月9日の論戦で終戦条件として四条件を主張する海相案(国体護持・武装解除・軍事補償占領・戦犯裁判の制限)と、一条件に絞るべしとする東郷外相案とが対立して決しかねた時だ。

(カモメ)その時、海相がいつのまにか外相案についたため、阿南陸相を苦境に陥れた。

(ウツボ)そういうことだね。第二回目はバーンズ回答に対する議論。陸相は国体護持の確証だけは万難を拝してもとりつけたい一心だった。その為には陸海一致の態勢を絶対必要とした。

(カモメ)だから阿南陸相は「バーンズ回答」に対して国体護持の再照会を主張したのですね。

(ウツボ)だが、これも海相の裏切りにより、国体護持確信の望みを絶たれた。国体護持の重責を放棄して和平の安きについた米内海相の日和見的態度を痛憤した陸相の絶叫だった。

(カモメ)終戦当時「バーンズ回答」をもって国体護持が出来ると判断した重臣閣僚達は大変な誤算を犯したとも言えるかも知れないですね。。

(ウツボ)うん。当時アメリカ国務次官であったグルー氏は「日本を降伏させるのは至極簡単である、それは国体護持を約束しさえすれば良い」と言っていた。

(カモメ)敵国人でありながら米国の指導者は日本人の気質をよく理解していたのですね。

(ウツボ)米国は当時から情報収集を重要視していた。当時は日本側はこれを確認できなかったが、阿南の主張は理があったということだね。だから阿南陸相の怒りは私憤ではなく公憤であったと言える。

(カモメ) 「日本のいちばん長い日」(角川文庫)によると、自刃した後、阿南陸相の遺体は陸相官邸に安置された。米内海相は秘書官と車で陸相官邸に向かった。車中同乗の麻生秘書官に米内海相は「惜しい人だったなあ」と言って大きな溜息をつき、深い沈黙に沈みこんだ。陸相官邸で、米内は阿南陸相の遺体の前に座し、なにも喋らなかった。それはずい分長い時間であった。

(ウツボ)「開戦の原因」(サンケイ新聞社)は、太平洋戦争の終戦直後GHQ(日本占領軍連合軍最高司令部)が日本軍の戦争指導の立場にあった陸海軍軍人に証言を求めた記録だ。

(カモメ)そうですね。米国国防省・国立公文書館の極秘文書による証言記録ですね。

(ウツボ)それによると、昭和20年11月17日、米内光政は連合軍の質問に答えて、陸海軍の意見の対立は、昭和20年6月6日と22日の最高戦争指導会議で持ち上がった。しかし、それが決定的に割れてしまったのは8月上旬のことである、と証言している。

(カモメ)8月9日の論戦でしょうね。さらに「激流の孤舟」提督・米内光政の生涯(講談社)には次のように記してありますね。8月14日の閣議の席で、終戦の詔書の「戦勢日ニ非ニシテ」という言葉を、「これでは前線の将兵に負けているように受け取られる」と言って阿南陸相が修正を要求した。

(ウツボ)それは、帝国陸軍将兵を代表している阿南陸相にとっては、陸軍の名誉にかかわるものだと、当然思ったからだ。

〈カモメ)屈辱でもあった。だが米内は、「実際に負けているじゃないか」とぴしりと言った。しかし、阿南は粘り抜いて、とうとう「戦勢必ズシモ好転セズ」と訂正させてしまった。その時の米内のぴしりと言った言葉が阿南の心に沈殿していた。

(ウツボ)その後、阿南陸相は他の閣僚と共に詔書に署名し、鈴木総理に挨拶。夜11時半、三宅坂の陸相官邸に帰り、夜半過ぎ、割腹自殺を遂げた。その直前に「米内を斬れ」と竹下中佐に言った。竹下中佐はこれを軽く受け流すことに決めたんだ。そうしないと、竹下は実際に米内海軍大臣を斬り殺さなければならなくなる。

(カモメ)それが真実でしょうね。阿南の墓碑は昭和28年、多摩墓地に建立された。墓碑の左側には「大君の深き恵に浴びし身は言ひ遺す片言もなし」の辞世の歌を刻んだ天然石の歌碑がありますね。

(ウツボ)この歌は阿南が昭和17年7月1日、満州第二方面軍司令官として対ソ作戦の準備をしていた頃、戦死を覚悟して作ったものだね。

(カモメ)右側には令息、惟晟少尉の墓がありますね。惟晟少尉は陸士56期で中支戦線で21歳で戦死しています。

(ウツボ)戦死の知らせを聞いた、当時第二方面軍司令官であった阿南中将は「今にして、乃木閣下が、日露戦争で愛児二人を戦死させた気持ちが分かる。いや総ての戦死者の親の気持ちが分かる」としみじみと語ったという。

(カモメ)阿南は昭和20年4月、鈴木内閣の陸軍大臣になってから今までの太い佩刀を、細身の佩刀に変えた。それは戦死した惟晟少尉の軍刀だった。自刃した時の切腹刀も惟晟少尉のものであったと言われています。

(ウツボ)惟晟少尉と一緒に旅立つ。それが親としての阿南のせめてもの慰めだった。

(「阿南陸軍大臣の自刃」は今回で終わりました。次回からは「戦艦大和の沈没」です





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最終更新日  2015.09.26 17:52:49


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