(ウツボ)また、金井中尉は、洞庭湖上空で、在支那のアメリカ軍のエースパイロット、リチャードソン大尉と、壮絶な一騎打ちしたことで知られている。
(カモメ)凄腕同士の両者の戦いは、お互いに致命傷を与えることができずに、勝負がつかず、引き分けに終わったが、第二次世界大戦を代表する名勝負の一つとして語り継がれているのですね。
(ウツボ)そうだね。中支方面の防空、迎撃戦において、戦隊の中堅として戦った金井中尉は、昭和十九年末までに<ボーイング・B-29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)四発大型爆撃機>一機を含む一九機を撃墜し、戦隊のトップエースになった。
(カモメ)昭和二十年夏、飛行第二五戦隊は朝鮮に移動、この朝鮮での戦線が、金井中尉の最後の任地となり、終戦を迎えました。
(ウツボ)金井中尉は昭和十九年三月から終戦までに二十六機を撃墜しており、合計撃墜数は三二機とされている。
【樫出勇(かしいで・いさむ)大尉・33機】
(カモメ)樫出勇は、大正四年二月生まれ。新潟県刈羽郡北条村(現・柏崎市)出身。少年時代から、戦闘機パイロットになるのが夢だったのです。
(ウツボ)昭和九年二月所沢陸軍飛行学校(少年飛行兵第一期)入校。昭和十年十一月所沢陸軍飛行学校卒業、明野陸軍飛行学校入校。昭和十一年二月明野陸軍飛行学校卒業、飛行第一連隊配属。
(カモメ)昭和十三年七月飛行第五九戦隊配属。昭和十四年九月ノモンハン航空戦に参戦。昭和十五年飛行第四戦隊転属。十二月少尉候補者第二一期生として陸軍航空士官学校入校。
(ウツボ)昭和十六年七月陸軍航空士官学校卒業。十月少尉、原隊の飛行第四戦隊復帰。昭和十八年四月中尉。昭和二十年五月武功徽章乙種受章、六月大尉。「B29撃墜王」として知られる。
(カモメ)終戦後、復員。故郷の新潟県柏崎市に在住。平成六年死去。
(ウツボ)「B29撃墜記」(樫出勇・光人社NF文庫)によると、昭和十六年十二月、太平洋戦争開戦当初、樫出勇少尉の属する飛行第四戦隊は、台湾屏東の基地を拠点に、フィリピン攻撃に従事していた。
(カモメ)その後、フィリピンの米軍が撃滅されるに至って、飛行第四戦隊は山口県の小月基地に帰還し、本土防空戦に専念することになりました。
(ウツボ)在中国の米陸空軍は大型爆撃機を配備して、八幡、小倉などの北九州地区の重要工業地帯に対する攻撃を企図しているものと判断されていた。
(カモメ)これに対し、飛行第四戦隊は、敵の攻撃が、夜間爆撃か、昼間ならば高高度爆撃であろうと予想していたので、この両者のどちらにも通用する邀撃戦を展開できるような訓練を開始し、機種も<川崎・二式複戦「屠龍」双発複座重戦闘機>に改編して猛訓練に入ったのです。
(ウツボ)<川崎・二式複戦「屠龍」双発複座重戦闘機>は、全長一一・〇〇メートル、全幅一五・〇七メートル、乗員二名、最大速度五四七キロ、航続距離一五〇〇キロ、実用上昇限度一〇〇〇〇メートル、武装七・七ミリ機関銃(旋回)×一門、一二・七ミリ機関砲×二門、二〇ミリ機関砲×二門、生産機数一七〇四機。
(カモメ)大型機を撃墜するには、大型火器を持たねばならず、三十七ミリ対戦車砲を<川崎・二式複戦「屠龍」双発複座重戦闘機>の機首前方か、胴体下部に取り付け、三十ミリ機関砲二門を、操縦席の後方、胴体上部に上向きに装着しました。
(ウツボ)訓練は実戦さながらで、夜間に、地上の高射砲部隊と連合して、照空灯隊の協力を得て、夜間射撃に習熟し、夜間行動がスムーズに、自由に行えるように慣熟することが必須条件だった。
(カモメ)照空灯の光芒内においても、光芒に幻惑されることなく飛行可能となるための特殊訓練を実施したり、昼夜の別なく、北九州その他の上空で猛訓練を展開した。この猛訓練で殉職する者もいました。
(ウツボ)高度九〇〇〇メートルの高高度訓練では、操縦席内の温度がマイナス十八度まで低下することもあり、悪条件で、エンジンも酸欠のため不調気味だった。訓練中には、かなりの脱落者を出した。
(カモメ)だが、四か月から六カ月もすると、訓練は目に見えて成果が上がってきたのです。戦隊全機、三十六機が離陸すれば、高高度で三十分から四十分の訓練を実施しても、わずか、一、二機が欠けるのみとなりました。
(ウツボ)昭和十九年六月、樫出勇中尉は、小月基地の飛行第四戦隊の情報主任だった。六月十六日午後十時四十分、卓上のベルが鳴った。
(カモメ)樫出中尉が受話器を取ると、飛行師団作戦室から「情報、情報、西部軍管区、警戒警報発令。飛行第四戦隊は、待機姿勢に移行すべし」。
(ウツボ)樫出中尉は、情報掛り将校を呼んで戦隊命令を下達させると同時に、戦隊長にその旨を報告して、作戦規定に従って、待機姿勢をとった。