テーマ:意外な戦記を語る(748)
カテゴリ:沖縄玉砕戦
(ウツボ)昭和十九年七月、日本政府は、サイパン島が玉砕すると、「沖縄の住民の中の老人、婦女、児童など約十万人を本土または台湾に疎開させよ」と、沖縄県知事・泉守紀に命令を出した。
(カモメ)この命令により、八月二十二日午後十時過ぎ、沖縄からの疎開船対馬丸が住民と学を乗せて長崎へ向けて航行中、アメリカ潜水艦ボーフィンにより雷撃され、十一分後大爆発を起こして沈没しました。 (サヨリ)対馬丸事件ですね。この沈没で、学童八二五人のうち七六六人が、住民八三六人のうち七一八人が死亡しました。子供や民間人が犠牲になった悲惨な事件ですね。 (カモメ)輸送船を攻撃するのは潜水艦作戦の主要任務ですから、アメリカ潜水艦としても、子供たちが乗っているのを狙って撃沈した訳ではないのでしょう。夜なので誰が乗っているか分からなかったでしょうから。 (ウツボ)それは確認されている。子供たちを狙ったのではないことはね。だが、アメリカでは、「真珠湾攻撃の復讐だ」という位置づけで、この潜水艦ボーフィンはハワイの真珠湾に保存されている訳だね。 (サヨリ)夜に船が沈み、子供たちは、恐かったでしょうね。沖縄県那覇市にある対馬丸記念館には、当時の悲惨な資料が保存されていますね。 (カモメ)そうですね。対馬丸記念館には多数の資料がありますね。対馬丸記念館は子供たちの未来と平和を願って建設されました。 (ウツボ)インターネットで「対馬丸記念館」のホームページも見られるね。ところで、話題を変えて、当時の沖縄守備軍の指揮官について話を進めよう。沖縄守備軍の最高指揮官は第三十二軍司令官・牛島満陸軍中将(陸士二〇恩賜・陸大二八)だった。 (サヨリ)最初の軍司令官は渡辺正夫中将(陸士二一・陸大三一)でしたが、病気のため交代させられたのですね。 (カモメ)そうですね。昭和十九年三月二十二日から八月八日までは渡辺正夫中将が第三十二軍司令官でしたね。だが、渡辺中将は心身疲労のため胃痛をうったえ、病気となり、更迭されたのです。そのあと、八月八日牛島満中将が第三十二軍司令官に任命されたという訳です。 (サヨリ)海軍部隊の指揮官は沖縄方面根拠地隊司令官・大田実海軍少将(海兵四一)でしたね。海軍部隊は約一万人いました。 (ウツボ)「人物陸大物語」(甲斐克彦・光人社)によると、牛島中将は鹿児島出身で、よく西郷隆盛の話を部下にして聞かせたという。性格もすべては部下に任せ、責任は自分が負うという西郷隆盛のような人物だった。部下を叱ることもほとんどなかったという。 (サヨリ)軍歴は教育畑が多いですね。歩兵学校教官、鹿児島第一中学校配属将校、戸山学校教育部長、予科士官学校幹事、予科士官学校長兼戸山学校長、公主嶺学校長、士官学校長などを歴任しています。 (ウツボ)そうだね。軍人にも色々なタイプの人がいるのだが、牛島中将は、元来、教育者としての思想が身についていたような人だった。 (サヨリ)「帝国陸軍の最後」の著者、伊藤正徳は「小学校の校長でも、およそ、校長として、牛島ほど似合う人はいない」と述べていますね。 (カモメ)「回想の将軍・提督」(潮書房)に元陸軍少佐・枦山徹夫氏(陸士四七・陸大五八)が「沖縄軍牛島・長将軍と板垣第七方面軍司令官」と題して寄稿しています。 (ウツボ)枦山少佐は昭和十九年七月末、陸軍大学校を卒業すると、いきなり沖縄の第三十二軍参謀に任命された。だが、十二月二十日付で第七方面軍参謀に発令され、沖縄を離れ、シンガポールの第七方面軍司令部に着任した。それで枦山少佐はそのまま終戦を迎え、生還した。 (カモメ)枦山少佐も牛島中将と同じ鹿児島出身です。枦山少佐がはじめて牛島中将に出会ったのは、昭和三年、枦山少佐が中学二年のとき、幼年学校の入学試験に合格し、東京陸軍幼年学校に入校して間もなくの頃でした。 (ウツボ)そうだね。当時、休日には県出身者の集会所三省舎(市ヶ谷仲之町)に集まって、鹿児島弁でくつろぐのが常だった。そこに、にこにこ顔できて後輩に温かい言葉をかけ、いろいろ将来や現在のことについて話をしてくれたのが、近衛師団の牛島少佐だった。当時後輩達は皆牛島少佐を尊敬していた。 (サヨリ)牛島中将は、陸軍大学校を卒業していながら、晴れ晴れしい参謀街道を歩まず、目立たない裏方に始終し、不遇な中堅時代を過ごした人ですね。 (カモメ)牛島中将の不遇時代を象徴するポストは、鹿児島第一中学校の配属将校でした。陸軍大学校を卒業した天保銭組で、国立大学の配属将校というのはあったが、天保銭組で中学校配属将校というのは聴いたことがない人事だったのです。 (ウツボ)天保銭の軍人だったら馬鹿にするなと怒るか、がっかりして勤務意欲を失うところだ。 (カモメ)ところが牛島少佐は、郷里の後輩を育てる絶好のチャンスとばかりに、教練の時間はもとより、課外の時間までも活用して、中学生の指導に全力を尽くしたのです。 (サヨリ)やはり、自分の立身出世よりも、教育者として、人を育てると言うことに熱心だったのですね。 (カモメ)そうですね。だから、戦後数年たってから靖国神社で牛島将軍の慰霊祭が行われた時、かつてお世話になった人々がグループごとに集まった。そのとき、軍人グループとは別に、鹿児島一中グループができていたと言われるほどです。 (ウツボ)枦山少佐は「牛島中将は口八丁手八丁の才気煥発な秀才型ではなく、磨かれて光り輝くようになった珠玉型で、酸いも甘いもかみわけ、厳しさの中に愛情があり、明鏡止水の心境であったという印象だった」と記している。 (サヨリ)素敵な人ですね。まさに教育者としての人格を備えていた人ですね。 (カモメ)「沖縄決戦~高級参謀の手記」(読売新聞社)の著者、八原博通大佐も、牛島中将を同郷の先輩として尊敬していました。 (サヨリ)万事を部下に任せて、責任は自分が負うという西郷南州型の人であると。 (カモメ)ところが、作戦家としての牛島中将は、のんびりしていた。第三十二軍高級参謀である八原大佐は、着任早々、重要な軍命令を起案し、牛島軍司令官に恐る恐る決済を受けに行ったのです。 (ウツボ)作戦命令の起案は高級参謀の主務事項だからね。 (カモメ)ところが牛島軍司令官は文案を読みもしないで、ペラペラと紙をめくった後、悠々と「どこにサインをしたらよいかな」と真顔で尋ねたそうです。八原大佐は度肝を抜かれてしまった。 (ウツボ)これでは、今後命令計画案は、すべて練りに練った上で、軍司令官の目を通すようにしないと危険だと八原大佐は痛感したということだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2015.08.14 22:08:53
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