テーマ:意外な戦記を語る(748)
カテゴリ:駐在武官・海軍
(カモメ)だが全権・加藤友三郎(かとう・ともさぶろう)海軍大将(広島・海兵七次席・海大甲一・軍務局第一課長・少将・連合艦隊参謀長・軍務局長・海軍次官・中将・呉鎮守府司令長官・第一艦隊司令長官・海軍大臣・大将・男爵・ワシントン会議全権・内閣総理大臣・元帥・大正十二年死去・子爵・従二位・大勲位)は国際協調の視点から大局的に判断し、最終的に受諾したのですね。
(ウツボ)ワシントン軍縮条約により、戦艦には悲喜こもごものドラマが待っていた。巡洋戦艦として建造中だった「赤城」と姉妹艦「天城」は航空母艦として改造されることになった。 (カモメ)ところが、横須賀海軍工廠で改造されていた「天城」は関東大震災のときに大破してしまいました。空母に関しては基準排水量が二万七〇〇〇トン以下と決められていました。 (ウツボ)「赤城」は昭和二年三月、ぎりぎりの二万六九〇〇トンで完成した。だが、この空母は無条約時代の昭和十三年に三万六五〇〇トンに大改造される。 (カモメ)「天城」が処分されたために、廃棄が決まっていた戦艦が新たに空母として生まれ変わることになったのです。それが「加賀」ですね。 (ウツボ)そうだね。海軍は建造が許される基準排水量の範囲内で三隻の空母を計画していた。「赤城」「加賀」が決まったため、残るのはあと一隻だった。 (カモメ)ここで海軍は奇抜なアイデアを思いついたのです。基準排水量の半分の空母を二隻建造することにしました。こうした経緯から「蒼龍」(一万五九〇〇トン)と「飛龍」(一万七三〇〇トン)が生まれました。 (ウツボ)「飛龍」は完成する時点でワシントン軍縮条約の期限が切れることから、姉妹艦の「蒼龍」より、いくぶん大きめに造られた。 (カモメ)後に、ミッドウェー海戦で沈むこの四隻の空母は、ワシントン条約の落とし子ということになりますね。第二航空戦隊司令官として「飛龍」に乗艦していた山口多聞少将もこのとき「飛龍」と運命を共にしました。 (ウツボ)昭和九年八月、山口多聞大佐は在米国大使館附武官としてワシントンに着任した。九月下旬、山本五十六少将がワシントンにやってきた。 (カモメ)山本少将は第二次ロンドン軍縮会議の予備交渉の日本代表を命じられ、イギリスへ赴く途中でした。山本少将は渋面で、山口大佐に次のように言ったのです。 (ウツボ)読んでみよう。「私は再三固辞したが、大角(峯生)海相も頑固者でな。断りきれなかった。東京駅では何とか同盟とか連合会とか称する連中が徒党を組んで現れ、やれ決議文だの宣言書だのを朗々と読み上げておった。恫喝だよ。あんな見識のない連中が憂国の士とは情けない」。 (カモメ)山口大佐が「今回は厳しい交渉になりそうですね」と言うと、山本少将は「ああ、河井継之助先生の心境だよ」と言った。それは、自分に言い聞かせるような答え方でした。 (ウツボ)それはね、山本少将にとっては、戊辰戦争で新政府軍と戦って死んだ河井継之助は、私淑する郷土の偉人だった。 (カモメ)ロンドンに出発する前、山本少将は親しい同郷の者に、小千谷談判(おじやだんぱん)に臨んだ河井の精神で交渉にあたる決意を明かしたというのですね。 (ウツボ)小千谷談判は、明治維新の慶応四年五月二日、討幕軍の代表と長岡藩の家老・河井継之助が小千谷(現在の新潟県小千谷市)で会談を行った。河井はあくまで長岡藩は中立を守り、戦争を避けようと決死の覚悟で会談に望んだ。結果的には決裂し戦争に突入することになったが、河井の精神は郷土の誇りとなり、語り継がれてきた。 (カモメ)ところで、山本少将は長岡にいたとき、キリスト教会に通ったことがあり、聖書を愛読していたのですね。山口大佐の先妻もクリスチャンでした。そんなことからも山口大佐は山本少将に親近感を抱いていました。 (ウツボ)山口大佐は酒豪だが、山本少将は下戸だった。山本少将は酒豪の面構えをしていたが、実際にはアルコール過敏症の体質であるため、酒類を受付けなかったのだ。だが、煙草は、葉巻が大好きだった。 (カモメ)山口大佐が「ロンドンでの小千谷談判がうまくいきますように。御武運を祈ります」と挨拶すると、山本少将は「ああ、やるだけのことはやってくる」と言いました。 (ウツボ)だが、山本少将の願いもむなしく、ロンドンの予備交渉は不調に終わった。十二月十九日には休会となり、十日後、日本政府はワシントン条約廃棄をアメリカ政府に通告した。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2015.07.13 17:39:18
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