(ウツボ)終戦後、小林照彦少佐は、昭和二十年十一月一日に復員して東京の自宅に帰った。昭和二十一年四月明治大学法学部(二部)入学。八月佐賀板紙株式会社入社。昭和二十五年明治大学卒業。
(カモメ)昭和二十九年九月佐賀板紙株式会社退社。航空自衛隊入隊、三等空佐。三十四歳でした。航空自衛隊幹部学校卒業。
(ウツボ)昭和三十年十一月米国留学・F86戦闘機操縦課程。帰国後、第一飛行団第一飛行隊長(浜松基地)。
(カモメ)昭和三十二年六月四日、搭乗のT-33ジェット練習機が離陸直後に墜落し殉職。二等空佐に特進。享年三十六歳。飛行時間は二〇〇〇時間でした。
(ウツボ)六月四日の事故は次のようなものだった。
(カモメ)浜松基地で、離陸直後に起きた事故でした。T-33ジェット練習機の後方席に小林照彦三佐、前方席に天野裕三佐が登場し離陸したのです。
(ウツボ)射撃訓練のため、標的にする吹き流しをつけた曳的機だった。離陸一分後に、エンジンが故障した。高度は三十三メートルだった。
(カモメ)小林三佐は、天野三佐を先に脱出させ、市街地に機を墜落させないように、最後まで操縦して墜落、殉職したのですね。
(ウツボ)そうだね。パイロットの処置としては、最大限の努力がなされ、技術的にも最善の措置がとられた操縦の結果であるとの評価がなされている。
(カモメ)先に脱出した天野三佐も、脱出高度が低すぎたため、パラシュートが開かず殉職しました。小林三佐と天野三佐はともに二佐に特別進級しました。
(ウツボ)「ひこうぐも―撃墜王小林照彦少佐の航跡」(光人社NF文庫・平成17年)の著者、小林千恵子氏(小林照彦少佐夫人)は「あとがき」で、次の様に述べている(一部抜粋)。
(カモメ)いまや、まさに躍進を続ける航空界の華々しさの蔭には、幾多の尊い犠牲が数多くあります。
(ウツボ)その一つ一つは原因も、経過も違いますが、結果だけはただ一つ、厳粛な死という現実となって存在するのです。
(カモメ)けれども生命の無ということは精神の無とは異なっていることを、十数年経った今も、強く感じております。
(ウツボ)亡き人々から受け継がれたものが、いつどこで開花するかはわかりません。或いは目立たぬ間に、日常の無事の中で開花は始まっているかも知れません。
(カモメ)思い出は、時に楽しく、時に苦しく私を過去へ引き戻してくれました。
【鷲見忠夫(すみ・ただお)准尉・6機】
(ウツボ)鷲見忠夫は、大正五年四月生まれ。岐阜県郡上郡八幡町(現・郡上市)出身。昭和十二年二等兵として陸軍に召集され、第二次上海事変・軟禁攻略戦に参加。中支戦線に駐留中、実兄の鷲見信義二等飛行兵曹(操練二七期)の戦死を知り、自分も飛行兵を志願した。
(カモメ)昭和十六年一月熊谷陸軍飛行学校入校。八月熊谷陸軍飛行学校(第八六期下士官操縦学生課程・戦闘機操縦)卒業、飛行第一四四戦隊(調布飛行場)第二中隊配属。
(ウツボ)昭和十七年四月飛行第一四四戦隊は飛行第二四四戦隊に改称。昭和十八年六月から十二月にかけ、装備機を<中島「九七式戦」低翼単葉戦闘機>から、<川崎・三式戦「飛燕」液冷単座戦闘機>に機種改変、伝習教育が実施された。
(カモメ)昭和十九年十一月マリアナ諸島から<ボーイングB-29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)四発大型爆撃機)>が来襲するようになると、鷲見曹長は迎撃戦に出撃。
(ウツボ)十二月三日、昼間の迎撃戦で、鷲見曹長は<ボーイングB-29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)四発大型爆撃機)>を一機撃墜、初戦果を上げた。
(カモメ)その直後、鷲見曹長は、中部地区防空担当の飛行第五六戦隊へ転属。十二月二十二日の中京地区迎撃戦で、鷲見曹長は、編隊戦で<ボーイングB-29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)四発大型爆撃機)>一機撃墜、一機撃破しました。