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国防・安全保障、国民の生命・財産の保護、民族の歴史解釈といった国家の大事については、見て見ぬふりを決め込み、専ら小事に拘り続けているのが「戦後」という時代である。
「失われたー」という事態は、必ずしもバブル崩壊後の何年かを指すものではなく、また経済分野にのみ怒っていることではなく、高度経済成長期以降の我が国が長きにわたって精神的・政治的・経済的・軍事的に喪失し続けている事態を言うのである。 この認識あれば、今日、我が国が要請される「改革」とは、「戦後」という軛から脱することでしかありえない。これは、右でも左でもなく普通の独立主権国家としての基本構造を再建すべきであるというにすぎない。 その中核に位置するのは、当然「国防の再建」であり、本丸は「憲法改正」(とりわけ前文と九条)でなければならない。 その「憲法改正」が戦後を疑わずその呪縛かを解こうとせぬまま、国民の欲望や嫉妬心に照準を合わせて進められるものであるとすれば、無意味どころか有害である。 現状において、「希望の党」なるものが「改革」と称して行おうとしているものははたして「戦後」を見直す。というものであろうか??? 私には「戦後」という檻の中でしか通用しないものであるようにしか見えない。 そもそも「脱しがらみ」などという小さな改革では、喪失など取り戻せるわけはない。 戦後、反日という気分の中で進められてきたあらゆるものを「見直す」ものでなければ、「改革」の名に値しない。 グローバリズムを善と信じる者に、「改革」はできないのである。 「改革」をグローバリストの手から取り戻そうではないか。 このような「改革」には多くの反対者もいる。反日教育、反日ジャーナリズムの洗礼を受けてきたのであるから、「そのような改革は誤りだ」と信じる者も少なくない。しかし、我が国の国難は、実に自らの手によって進めてきた「戦後日本」そのものがもたらした厄災なのである。 認識を改め、我が国の歴史・伝統に基づいた「祖国再建」これが保守である。 「保守」をグローバリストの手から、戦後日本人の手から取り戻さなければならない。 そのためにも、秦のリーダーシップ。これはつまり、決定することを意味すると理解し、これまでのように強い指導力を嫌い、「調整力」を重視したものでは実行できない。 小池都知事が最も苦手とするのが「決定」することである。 もうひとつ不得手なのが大事・小事を分別することである。 彼女の「決定」とは「イメージ」でしかない。 実像を見れば、国家の大事に対して「なんらの決定」を行った事実はない。 小事を差配する。つまりは戦後そのものでしかない。 私はこう断然ざるをえない。 それでも「国益」に叶うならば、現実としての政治として、組む必要がある。しかし、彼女の言動から見て彼女に存在する利益とは、自らの権力欲を満たせるかどうか、ここにしか判断基準が置かれていない。 勿論、小池都知事を非難するだけではなく、これは安倍総理にも当てはまるものである。それゆえ保守派から、小池都知事の似非指導力、似非保守にだまされる向きもあろうが、先に述べたが、グローバリストに今わが国が求められている「改革」は不可能である。 このような改革は、一朝一夕にできるものではない。 変えられる筈の現実を、「現実主義」という美名の下、実は便宜主義に陥っている場合は少なくない。 この改革への道筋は、「戦後」という時代をまともに見るかどうかだけである。 この改革は、決して結果として薔薇色に満ち溢れたものではない。 そこに見えるのは「荒廃した日本」が基本となるからである。 しかし、その現実を見ることを拒めば、「改革」はできない。 文責 上田 和哉 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2017.10.03 12:30:08
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