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テーマ:国を憂いて(3492)
カテゴリ:憂国の嘆き
政治家にとって「性別」はそれほど重要なファクターなのであろうか???
総選挙を終え、女性議員の数がどうしたこうした。という話がまたぞろ出ている。 私には、まずこの疑問がある。 さらに「民意」「主権の行使」を行った結果を見て、「女性議員の数が少なすぎる」などというのは、国民の「民意」を普段は聞けなどと主張するマスコミが、「どの面下げて言っているのか?」という気になる。 しかも、女性議員を噛ませ犬のように扱い、その様子を「ヒロイン」であるかの如く扱い、彼女らが何らかの問題(大抵の場合、それはつまらぬことである)を起こせば、「堕ちたヒロイン」「堕ちた犬は叩け」とばかりに報道しているという反省もなく、このような話題を作りだすのに、私は嫌気がさしている。 「男性議員を選択したのは国民である」 先の総選挙において、女性の立候補者が、ほとんどいなかった。というのでなければ、有権者は「その人」を選択したということであり、「女性には票が集まらなかった」だけでしかない。 このような分析こそまずなされるべきであろう。 そして問うべきは「なぜ国民は女性議員を選ばなかったのか?」である。 ところが、話は、そのような話にはならずに、「女性議員を増やすにはどういうことをする必要があるのか?」とまたぞろ下駄を履かせる方法論答えを集約しようとしている。 少し考えてほしい。 全国民における女性の比率に対してをなぜ問わなければならないのか? 本来比較されるべき指標は「政治家を志す国民に占める女性の比率」であろう。 こう考えればこのような結果となるのは、当然である。 それは「ガラスの天井」でも「鉄の天井」でもない。 高下駄を履かせて、議員にさせる。(例えば、重複立候補をやめて、比例の上位に女性だけを配置するなど) これは、果たして「公平」というのであろうか??? 「女性のほうが、勉強も、下働きの経験も何もせずに当選する」 これでいいのであろうか???? 当然そうすればするほど、国会議員の質は低下するだけである。 「女性だからといって忌避すると、それは損失」という考えがある。当然であろう。しかしその裏には「女性だからといって優遇するのも損失」ということも言えるのである。 多くの国民は、「女性候補だったから選択しなかった」のではなく、「国会議員として適格かどうか?」ここにおいて選択したものであると考えている。 国会議員に必要なのは、その資格の有無であろう。 私は、ひとつ、女性がなぜ、「各党において、噛ませ犬の役回りをさせられたり、広報を担当させられたり」となるのか?そこには女性のリーダーシップの不在があるからだと思っている。 「女性が憧れる女性」 私は、詳しく分析したことはないが、「元宝塚」というものが必ずランクインしているという印象を受ける。 宝塚では、なぜそのような女性を排出するのか??? それは女性しかいないからである。 つまりは力仕事も、損な役回りも、汚れ仕事も何もかもやるのは女性である。 男女共学の高校などでは、まず間違いなく、女性は嫌がる仕事は「男性に」としがちであるのと比較してみれば理解いただけるものと思う。 勿論、ここには「女性から頼まれれば嫌とは言いにくい」という心理が働くのではあろうが。。。 この真逆「女性に嫌がる仕事を依頼する」というケースは少ないであろう。 宝塚では、その考え方が通用しないのである。 ならば、女性が社会進出しないのは、「男性が無理解である」というならば、このような風潮も批判すべきであろう。 女性は「チヤホヤ」されているだけ。 多くの方々は、経験則からそのように考えている。ということではないだろうか。。。 そして、女性議員を扱うマスコミもまた「資質」ではなく「チヤホヤ」する対象でしか扱っていない。 私にはそう見える。 私は、おそらく多くの非難が出るではあろうが、「優秀な女学校(高校)」を作るべきと考えているのだが、残念ながらこの世の中の風潮はそうではなく「女学校から男女共学へ」という方向になっている。 異なるのは「埼玉県」くらいであろうか。。。 「女性が何もかもできる環境」これこそが、女性のリーダーシップを形成させる「基本」となるように思える。 そうではないから、やはり、「女性は差別されている」だとかの感情論だけに走ってしまうのである。 女性に「ガバナンス能力」が欠落している理由として「嫌なことは男に」とかんがえる女性心理がある。 だからこそ、「男性が引き揚げてくれて当然だ」「男性社会批判」のオンパレードになる。 つまりは、下駄を履かせてくれないから」という話になるのである。 なぜ、もっと女性は「汚れ役」をこなせるようになりなさい。と言わないのであろうか??? このような話題を取り上げたのは、野田聖子代議士が「女性のための政治塾」を作る。という話が出ているからである。私は、この動きに、「女性議員票を集めて、総裁選を有利に戦おうという思惑がある」などという意見も出ているようだが、私は、そうであってほしくはない。 そのような「塾」ならば、失敗は目に見えている。 そうではなく、「すげて女性がおこなう塾」つまりは、「宝塚」の政治版のようなものであってもらいたいと思う。 「事務」も「会場の設営」などもすべて女性が行う。 このようなものとするならば、大歓迎である。 しかし、結果が出るのは、野田聖子氏が女性初めての総裁の座が、近づくという話より、ずっと後の話となるだろう。だから、自分のためにというならおやめなさい。と忠告しておきたい。 「祖国のため」というならば、大賛成である。 この話のついでに、ヒラリー・クリントン氏の話をしておきたい。 ヒラリー氏は、夫クリントン氏とドライブに出かけた際に、「私の旦那が、ガソリンスタンドで働く人」だったなら、その男性が大統領になっていた。と豪語して見せたという逸話がある。 そのような女性が女性に好かれるのかどうか? 「嫌われ者対決」と呼ばれた先の米国大統領選の結果が示しているだろう。 ぜひとも、女性に好かれる「女性議員」を多く、生み出してほしい。 ヒラリー氏が大統領になれなかったのは「ガラスの天井」などという甘えの問題ではなく、彼女自身の経歴、そして思考法などに大きな問題点があったのである。 まあこのヒラリー氏と比較するのはあまりにも、ヒラリー氏を侮辱することにはなるだろうが、小池都知事。彼女の場合にはヒラリー氏のようなものではなく、無能、そして自らが男性に媚を売って、自らの地位を築きあげただけという。もう問題外の人である。 こんな女性を「贔屓」していれば、いつまでたっても多くの方の女性観は変わらないであろう。 「自ら立とうとするものを助ける」 さらには先日来日したイバンカ氏は演説で 「インサイド、アウトサイドの隔て」について語っていたが、 この言葉が「専業主婦」に対するリスペクトの気持ちを持て。という女性に対するアピールであったことを知るべきであろう。 今「社会進出」ばかりを追い求め、それが正しいという考え方ではなく、「専業主婦もまた正しい女性の生き方」この意識を女性が持てるのか??? 今、テレビでキャンキャン吠えている人たちが、「女性の代弁者」などではない。 このことが理解できる女性の国民を代表する「選民」となる。 こうなってほしいと思う。 「ポンコツ」は要らない。 ポンコツの割合が、「女性議員」「男性議員」の数から考えて、圧倒的に「女性議員のポンコツ度」が高い。(母数が少ないためであるが)この状況を変えるのは、女性自身しかできないのである。 ここを理解していただきたいと思う。 国民が求めているのは「女性議員」でも「男性議員」でもない。少なくとも「ポンコツ」「ガラクタ」などではないことなのであり、その国民の先進性に、マスコミも、当の女性議員たちも気が付いていないのではないか??? この国民の先進性に気がつかないからこそ、彼らの予測は外れ続けるのである。 「国民を先導する」などもってのほか「国民のレベルにいかに到達するのか?」 ここにこそ、焦点を当てた方法論を考える必要がある。 「ガラクタ」を「本物だ」と言い続ける限り、誰も相手にしなくなる。まあ今のマスコミは「贋作ばかりをつかまされる古物商」のようなものでしかない。 小池都知事のような幼稚園児が描いた「写楽」を「本物」だと言っている限り、マスコミの将来は暗い。 こんあもの、「真贋鑑定すら必要ない」親しか価値を見いだせない「ガラクタ」である。 これを信用しろ。これが正解だ。 もういい加減に目覚めてもらいたいものである。 文責 上田 和哉 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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