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Ryu-chan6708

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2008.10.30
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カテゴリ:歴史


                  
昭和天皇・マッカーサー会見

マッカーサーとの会見1950年の第10回会見以降行われず朝鮮戦争でマッカーサーが解任され、帰米する前日が最後の両者の会見となった。
  この会見の記録で、東京裁判が東条らに全責任を負わせる一方で天皇の不訴追に終わるという「日米合作の政治裁判」であったことが、この最後の会見で当事者同士の会話によって確認される。

  次に昭和天皇にとって共産主義の脅威から天皇制を守りきるためには、無条件に米軍依存するしかなかった。

A氏:天皇にとって「安保体制」こそが、戦後の「国体」として位置づけられたわけか。

   ところで、朝鮮戦争でアメリカが日本に再軍備を要求するね。
   そして、吉田首相が「無理な要求だ」としてうまく立ち回るね。

私:ところが、著者はダレスの交渉の狙いは日本軍の再編成でなく、米軍基地の継続利用だったという。
   朝鮮戦争でアメリカも日本に基地がほしいから、日米で「五分五分の論理」を展開できる外交カードを日本は持っている状況にあった。
   途中、したたかな吉田はそのカードを使い出そうとしたようだね。
   ところが、51年1月30日日米交渉の最初の段階で、吉田はそのカードを切らず、基地提供の意向を早々と表明してしまう。

A氏吉田外交は稚拙だったことになるね。

:著者は、その原因は昭和天皇の「二重外交」にあるという。
  それは天皇が直接ダレスに「口頭メッセージ」で安全保障の諮問会議設置を伝えていることだね。
   さらに、アメリカ側の要請で、「口頭メッセージ」でなく「文書メッセージ」を送る。
  ここには外交カードを使う吉田批判も含まれていたという。

   そして、1951年2月第1次交渉がほぼ決着がついた2月10日天皇・ダレス会談となる。
  天皇の安保条約への関与吉田首相が日米交渉の節目ごとに「内奏」に行っていることで明らかだという。
  その「内奏」の記録を見ると、「あたかも外相が首相に交渉の詳細を報告しているかのようなもの」であったという。

A氏:「内奏」自体が新憲法では政治介入だね。

:ところで、俺はこの本で知ったのだが、意外なことに、吉田首相がサンフランシスコ講和条約に出席することを、最後の最後まで執拗に固辞したことだね。
  ついにダレスまで、吉田以外の代表では「不十分」だと督促し出す。

A氏:吉田首相は、何故、そこまで頑強に抵抗したのかね。

:著者は、講和条約そのものは、吉田は高く評価していた。
  しかし、問題は、同時に締結される予定の「安保条約」だ。
  
これは、吉田の「自尊心」を傷つけた「不平等条約」だ。

A氏:それが、ワンマンと言われた吉田首相が折れて、結局、最後はサンフランシスコ講和条約に行くようになったのは何故なの?

私:ダレスの督促が来た3日後に、吉田は昭和天皇の「拝謁」に行く。
 この後に、吉田は態度をガラリと百八十度変える。
 
天皇から「御詰問」か「お叱り」があったのではと推測される。
  そして、吉田の全権就任問題が解決すると、ダレス側が「日本の全権委任状に天皇の認証あることを明示すること」「全権は天皇の拝謁式で公表のこと」という要請が来る。
  その根拠は、「今度の平和条約が天皇陛下によって嘉納されていることを世界に明らかにするため」であるという。

A氏:アメリカ占領期には、ワンマンの吉田首相の上に、もう1人ワンマンがいたことになるね。

:著者は、その観点から戦後史を再評価すべきとしているね。
  いろいろな手記も公表されてきたからね。

  著者は、天皇の政治介入は戦争中から一貫しているという。

  明日は、最後の話題として戦争中の政治介入問題に話しを移そう。

 






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Last updated  2008.10.30 12:20:05
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