私:作者は、すでに太宰治賞、野間文芸新人賞を受賞しているね。
主人公は年間収入160万円という、30歳になろうという独身女性のワーキングプアの淡々たる日常を描いたものだね。
選者の一人の山田詠美氏が「『蟹工船』よりこっちでしょう」と批評しているが、これが新聞広告に大きく載っていたね。
A氏:主人公は「蟹工船」のようなひどい労働をしているのかね。
私:そんなひどい労働環境ではないね。
そんな労働環境は今の日本にはないだろうね。
しかも、舞台を関西においているのが幸いしているね。
選者の黒井千次氏が評しているように、舞台を東京に置いたなら、忍耐、がんばり、苦労、不条理への抗議など、ゴツゴツした問題提起の様相を帯びてくるだろうね。
それがない。
A氏:主人公はどういう仕事をしているの?
私:乳液の工場らしいね。
作業場に入るときに、エアシャワーのクリーンルームを通り、次に手をきれいに洗う。
衛生管理がうるさい工場だね。
そこでのコンベヤーに流れてくる品物のチェックする仕事のようだね。
後は、2つほどあるバイトをしている。
A氏:何故、そういう労働をするようになったの?
私:主人公は大学を卒業して、入社した会社をモラルハラスメントが原因で辞め、工場の契約社員となるね。
29歳の独身。
母親と築50年の古い家に同居。
大学時代の友人の離婚などを交え、この年代の女性の生き方を淡々と述べている。
「失われた10年の世代」かな。
A氏:貧困というほどではないんだね。
私:しかし、年収160万円という経済制約は、日常の関心が細かいカネ遣いに集中していくね。
貧困の定義は、昔の貧乏でなく、問題は精神状態だね。
「貧すれば、鈍する」というが、現代は「鈍」のほうが怖い。
「現代の貧困」には「虐待・不登校・地域からの孤立・ひきこもり・自分の居場所がない」という「人間関係のホームレス」が加わる。
しかし、この主人公には、3人の大学時代の友人もいるし、母も同居でいる。
職場でも、よく話す人はいる。
それでも、至近距離しか見えない日常生活という感じで、俺にとっては閉塞的な日常という感じがしたね。
それがうまく描写されている。
この小説を読むと、労働から得るのはささやかな金だけで、後は何を得ていないような気がするね。
それを本人がチョッと気づき、チラッと生き方に鋭い疑問が出てきたときは、怖い感じがしたね。
A氏:それを選者の山田詠美氏をして「『蟹工船』よりこっちでしょう」と言わしめたのかね。
私:だから、例によって、選者の一人である村上龍氏は、この作品を推していないね。
コントロールできる世界だけを描いているとして批判しているね。
作家は、コントロールできそうにもないものを何とかコントロールしようという意思を持つべきだというのが村上龍氏の意見だね。
A氏:政治、文化、歴史などの広い社会へのかかわりにもふれるべきということかね。
私:石原慎太郎氏は、推してはいるが、他にいい作品がなかったと言うことで、消去法的だね。
しかし、作者の語りの旨さは高く評価しているね。
今は百年に一度の経済危機だ。
この主人公の工場も打撃を受けるだろう。
政治、文化、歴史などのコントロールできないものによって、コントロールできると思っていた日常が大きく振り回されることになるだろうね。