【昨日のつづき】海底に眠る戦艦大和は果たして安らかな海の墓標となるのか
昨日のつづき 戦争末期、無用の長物と化していた戦艦大和の最期の戦いの地に沖縄が選ばれた。太平洋戦争は真珠湾攻撃で幕が切って落とされたのだが、この戦争は航空戦になることはアメリカは想定していた。ミッドウェー海戦で4隻の航空母艦を失った日本はその後じりじりとアメリカの航空母艦の攻撃にさらされていき戦況不利になる。戦艦大和は活躍の場のないまま終戦を迎えようとしていた。日本軍大本営は大和に最後の出撃を命じる。このとき、片道燃料の最期の特攻になることは出港して鹿児島沖でまできたとき初めて乗員には告げられたという。このときの乗員の心境いかばかりだったか。 石田会長は海軍幹部だったので、艦橋付近にいた。アメリカ軍の攻撃が始まり艦がどんどん左舷に傾き始める、なすすべはない。最初の攻撃から2時間もたったころであろうか、総員退去命令が発令される。石田は海へ飛び込んだ、沈みゆく大和の渦に巻き込まれて一緒に沈んでいった。海中でもがき何度海水を飲み込んだことか、ようやく海面に浮上した。浮上して周りを見渡せば海面には油が漂い、手のない死体や首が吹き飛ばされた死体が浮かんでいた。まさに地獄絵だったという。何時間たったか覚えてないが駆逐艦に助け上げられ佐世保に帰投した。 戦後、石田はどうしても大和の沈没位置にいき戦友に花を手向けたかった。その熱意だけで大和会を結成し、大和探索を繰り返していた。大和を捜すだけの戦後40年であった。40年後に大和に再会でき、その眼で大和を確認したことによりそれまでの労苦が吹き飛んだ。狭い潜水艇の船内から無残ではあるが確かに大和であることを確かめて石田の戦後は終わった。 その後、潜水艇はマニュピレータを使い海中に散乱する大和の残骸の中から何点かの遺品を回収した。石田会長が手に持っていとおしそうに眺めている軍靴は戦友のものであろうか。作戦会議に使用したのか、ランプも回収された。40年の歳月を経ても朽ち果てることなく、海底で日本へ帰る日のことを思って待っていたのであろうか、これらの遺品は。遺品をみたときこみ上げる涙をこらえられるものはいなかった。 このときの探索に参加した角川春樹氏の姉辺見じゅん氏が後に「男たちの大和」を書いてそれが昨年映画化された。 石田会長は3年前に他界され、戦友の待つあの海底にいかれたのであろうか。ご冥福を祈るだけである。 小生の証言をもとに作成された海底に眠る大和のスケッチである。 戦友の軍靴を手にとって感慨深げに眺める石田会長 遺品を手にする辺見じゅん氏 探索船に装備された機器当時のメディア報道 戦艦大和の沈没地点