本所Wデビュー(3)「大江戸と洛中」展~大内バカの食い付きどころ
思いがけず屋外展示を楽しんだ後で、本日のメインへと向かう。江戸博はちょっと変わった造りをしている。事前にホームページで見たところでは、企画展示室は1Fにあり、レストランやショップも同じく1Fにある。3Fには珍しく無料の休憩所があり、ショップやこの休憩所には入場料ナシで行かれる。上の階が常設展示で、常設展と企画展は別料金とある。だからフツーに1Fから入ってそのまま企画展示室へ行けばいいのかと思ったら、屋外展示のあるこの場所が3Fらしい。少し奥まで行って、チケットを買う。結局今回は特別展だけにしたので、常設展との共通チケットは買わず。どうやって入るのかと思ったら、上と下に行くエスカレーターがあって警備のおじさんが立っていた。私がこれから行く1Fにはショップやレストランもあるのでそのままエスカーに乗れたけど、たぶん常設展行きの上のエスカーに乗るにはチケットを見せるんだろうな。なるほど、こうやって料金を分けてるのか。下へ降りると、開場時間直後の割にぽちぽち人がいた。まずは上着と荷物をロッカーに預けてと。今回はカメラも持ち込む。撮影禁止のようだけど、特別展に行った人で「特別に許可を頂いて写真を撮った」とブログで写真を公開している人がいたので、お願いすれば撮らせてもらえるのか?と淡い期待を抱いていたのだ。で、入口でお姉さんに撮影の件について聞いてみたら「それはどこかの取材じゃないんですか?」と言うので、個人のブログで見たと言ってみたら、あるいは事前に広報に申し込みをしておけば許可が下りるかもしれないということだった。そうか、やっぱりダメか・・・まあ、撮らせてもらった人のブログを見さえしなければ、私だって撮りたいなんて考えはしなかったしね。てことで、企画展示室内部の写真はありません。今回の特別展、『大江戸と洛中』展へは事前のチラシで知ったただ2点の出品物を見るためだけに来たので、どういう趣旨の企画展なのかは全然知らなかった(つか、知ろうとしなかった)で、「ごあいさつ」によると、江戸博は平成25年で開設20年を迎え、去年からその記念として特別展を開いてきたらしいんだけど、今回がその最後の企画になるらしい。サブタイトルは「アジアのなかの都市景観」とあり、アジア全体の中で江戸を見るという一風変わったテーマになっている。日本語では『大江戸と洛中』というタイトルは、英語表記だと「Edo and Kyo」・・・うわあ~、味気ねえ!!日本語っていいなあ・・・と率直に思いましたまず最初は、東海道やら日本の全体図やら世界地図やら、デカい絵図が並ぶ。続いて「アジアの都市は中国の都市づくりの影響を受けている」(図録より)として、中国から京都へつながる系譜というテーマで中国の絵図や北京の都市図など、これまた地図系の展示が並ぶ。中国都市部だとか都城の絵図なんかはなかなか目にする機会もないし、これはこれで貴重なものだとは思うけど、すべてをじっくり丁寧に見るほどの時間と体力は今日のわたくしにはない。ので、地図系は見つつもゆっくりスルー。次が洛中の絵図。京よりも今は江戸が見たいのでこれもゆっくりスルーしたけど、結構詳細な絵図も各種残ってるんだな~と思った。その先が江戸のブース。ここからがわたくしの本番。江戸市中の古い絵図などの他に、江戸城天守の図面もあった。ただし、解説によるとこの図面が実際の天守の姿を伝えているのかは検討を要するとある。これらを見た後、展示室はコの字のように折れ曲がる。そのコの字のつきあたりのガラスケースの中に、大蔵経が2点展示されていた。あ~、一切経ね。もう一切経といえばわたくしの中では大内氏が輸入の第一人者だから、必然的に意識が大内氏に飛んでいく・・・(実際は室町幕府がトップです)まず手前に重要文化財の「宋版大蔵経 付収納箱」。宋版?ならこれも輸入品か。 【古代国家以来、大蔵経は国家権威の源泉と考えられており、大蔵経を関係する 寺院に収蔵することは権力者の責務と意識されていた。】 (解説より)国家権威の源泉?大内氏がはたしてそういう意識を持っていたのかはわからないけど、天平の歴バナの中では金光明最勝王経が大活躍してたしな~。(「春の寛永寺」シリーズをご覧ください)為政者からすれば、確かにそういう視点もあったのかもな~。江戸ブースにいながら、大内氏と天平の頃を思い描いてぼんやりと大蔵経を見つめる。宋版のお隣が「元版大蔵経 付収納箱」。こちらも重要文化財。ぼんやりした目で解説文を読むと、目を見張る文章がそこにあった。 【元時代に制作された木版の大蔵経。折本の体裁をとる。 5418帖のうちに、奥書に応永27年(1420)の年紀と普廣禅院の 所蔵本を書写して氷上寺の欠本を補った旨の記載がある写本が含まれている。 両寺とも周防国守護大内氏ゆかりの寺院であり、本経典が大内氏との関係で 周防国に旧在していたことが推測されている。】ハア!?なんですとぉぉぉぉ~~~~・・・「普廣禅院」はどっかで聞いたことあるような気もするけど、ちょっと思い出せない。後から調べても、結局よくわからなかった。けど、大内ファンが「氷上」と聞けば即座に大内氏の氏寺・興隆寺を考える。「氷上」の名を持つ寺は他にも存在するのかもしれないけど、当時の一切経が超貴重品だったことを考えれば、まんずこの「氷上寺」は興隆寺と考えてほぼ間違いないだろうと思われる。しかも応永27年て盛見の時代じゃん!!来歴がはっきりしてないようだから、かなり控えめな解説になってるけど、盛見の代の元版大蔵経なら、盛見が輸入したものって可能性だってあるんじゃ・・・と思って、帰ってからその辺のことを少し調べてみました。「大江戸と洛中」展の全訪問者数でこの一切経に食いつくのはまず1割にも満たないでしょう。実際、上の解説文を手書きでメモってる間、このケースの前で足を止めたのは真面目な人が軽く解説を読んでちらっと一切経を見た程度で、それでもほんの数人。専門家か仏教に関心のある人か大内バカ(←わたくし)ぐらいしかこれに目を止める人はいないと思われます。が、わずかにでもこれの来歴を推測できないもんかと調べてるうち、結構オドロキの事実も知ることができたので、しばし大内氏と一切経の話におつきあい下さいえ~とまず、中国の「元」は「元寇」でわかるように、日本では鎌倉時代。ので、盛見(1377-1431)とは時代が違います。「大江戸と洛中」展に出品されてた元版の一切経は増上寺の所蔵らしいんだけど、伊豆修善寺にあったものを家康が巻き上げ・・・あやや、入手して増上寺に寄進したと紹介している人がいた。修善寺?大内家の領国から流れ流れて修善寺に辿りついたという可能性もなくはないけど、大内氏と修善寺とは直接の関係は(たぶん)ないので、何かヘンだな・・・と思って修善寺の方を調べてみたら、修善寺のは北条政子が寄進したもので、残念ながらその多くが焼失しているものの、8巻は修善寺に現存しているという。年代的に修善寺の一切経は確かに元版の可能性もある。が、一部が現存してるなら、修善寺説がどこから仕入れたものかは知らないけどわたくしは却下します。 【当時(室町時代)の国内には、大蔵経を完備する寺社が稀であったため、 大蔵経の所蔵は寺社のステイタスの向上に直結した。有力な寺社であれば、 まとまった大蔵経の獲得は悲願であったといっても過言ではない。しかし、 当時の日本には大蔵経を印刷できる版木が存在せず、大蔵経は容易に入手できる 代物ではなかった。】 (『大内氏の国際展開-十四世紀後半~十六世紀前半の山口地域と東アジア世界-』 /伊藤幸司より。カッコ内は戦国ジジイが追加)増上寺の歴史は古い。が、天正年間以前の詳しいことはわかっていないらしく、増上寺が歴史の表舞台に登場するのは家康の入府を待たなければならない。この一切経が元から増上寺の所蔵だった可能性もなくはないけど、一切経が上の論文にあるような貴重品だったことを考えると、徳川家の菩提寺となってその体裁を整えるために家康が寄進したというのが妥当なところだろう。実際、増上寺のホームページでは増上寺が所蔵する宋版・元版・高麗版の3つの一切経は家康が寄進したものだとしている。じゃあ、修善寺でないなら家康はどこから元版を手に入れたのか?解説には【奥書に応永27年(1420)の年紀と普廣禅院の所蔵本を書写して氷上寺の欠本を補った旨の記載がある写本が含まれている】とある。大元の一切経は大内氏の興隆寺にあった。ただ、欠本があったので、普廣禅院が持っていた経をコピーして補った、そういうことだよな。それがなぜ家康へ渡ったのか・・・これはもう、アレしかないでしょう。別にそういう例がありますからね。はい、園城寺(三井寺)の一切経蔵ですよ。(「大津編(17)」~「大津編(19)」を参照)園城寺の一切経とそれを納める輪蔵、そして建物はセットで毛利輝元が寄進した。当時の状況から、政治的な事情での寄進だとわたくしは考える。端的に言ってゴマスリ、良く言っても少しでも状況を有利に進めるためのプレゼント大作戦。増上寺の一切経も、同じくゴマスリで家康にプレゼントされたと見るのが自然だろうと思う。毛利氏は、旧領主であった大内氏の遺産を一部保護はしている。けど、保護よりも利用や破壊している面の方が多いんじゃないだろうか。関ヶ原後、収入は減ったけど、領国に潜在する大内氏の遺産は多くあり、それらをてるは遠慮なく使った。今回偶然知ったんだけど、浅草寺も元版の一切経を所蔵しているらしい。こちらも国の重文。ネットで調べたぐらいじゃ浅草寺の一切経の由来はわからなかったけど、古くから信仰を集めていた寺とはいえ、寺格の点から考えるとこれも徳川家から寄進された可能性が高いと思われる。まさか浅草寺のも大内氏がらみってことはないよな・・・ただ、室町期は一切経の輸入がさかんだったとはいえ、国内にある輸入版は限られてるからね。いくら家康が天下人になったからって、そう簡単にあちこちの寺社から一切経を巻き上げられるもんでもないでしょうし、大内氏の領国内の寺社には数点一切経があったことは確認されてるから、江戸期には大内氏がらみの一切経が最も流しやすかったんじゃないかという気がする。ちなみに、大谷大学にも高麗版の一切経があるらしいが、こちらは元は厳島神社の所蔵だったらしい。厳島から流れた理由はわかっているようなんだけど、あいにくネットではその論文は手に入らなかった・・・が、大谷大学のも厳島という場所柄、大内氏との関連がうかがわれるそうな。にほんブログ村