カテゴリ:江戸めぐり
では、大黒神社本殿のご紹介。
鉄筋造りだけど形式に則っていっちょまえに蟇股がある↓。 アハハハ、ここ、打出の小槌尽くしだ~ まあ、建物自体はご覧の通りなので特筆すべきものはありませんが・・・ しょうがないよね。 で、早速ここでおみくじをひいてった。 さて・・・染井霊園へ行くにはこのまま東へ向かうんだけど、 気持ち回り道をして本郷通りを北へ。 本郷通りが広いのでつられてぼんやり歩いてったら、 うっかり曲がるべきところを通り過ぎてしまった。 あわてて引き返したら、通り沿いには道標が建っていた↓。 これに従って細い道を上がっていくと、ずっと奥に次のお目当て、 妙義神社があった(場所はこちら)。 ここにはこんな碑がある↓。 ちょっと全文は読めないんだけど、右から2つ目の石には 「寛政6年」(1794)とある。 境内には、神社の縁起が書いてある。 ちょっと長いですが、歴史ある場所ですので全文をご紹介しましょう。 【妙義神社 当社の祭神は、高御産霊神(たかみむすびのかみ)・日本武尊(やまとたけるの みこと)・神功皇后・応神天皇である。文政11年(1828)に成立した 『新編武蔵風土記稿』の記述によれば、日本武尊が東征の時にこの地に陣営をしき、 のち白雉2年(651)5月に社を建てて白鳥社と号したという。これによれば、 区内最古の神社ということになる。 くだって文明3年(1471)5月、足利成氏(しげうじ)との戦いを前にした 太田道灌(どうかん)は当社に参詣し、神馬・宝剣を捧げて戦勝を祈願した。 その際、「雲払ふ 此神垣(かみがき)の 風の音」と連歌を詠み、この戦いでは 成氏を敗走させたという。 続いて道灌は、文明9年の豊島勘解由左衛門との戦いの際、さらに同11年の 千葉孝胤攻略の折にも戦勝祈願に当社に参詣したといわれている。 こうした故事から、「戦勝(かちいくさ)の宮」とも呼ばれて信仰を集めた。 その一方で、大永年間(1521~27)には江戸城代遠山丹波守が、また 永禄12年(1569)には守護富永神四郎が当社を修理したものの、天正年間 (1573~91)に松田尾張守康秀が社領を没収したのち衰退するなど、 当社にとって戦国時代は波乱の時期でもあった。 境内には、寛永19年(1642)11月に駒込村の農民によって建立された 庚申塔が遺されており、当該地域の信仰の拠点となっていたことが推察される。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換) ふう・・・・・・・・・ 前回のシリーズ、東西条編で何度も「安芸の歴史は複雑です」と書きましたが、 同じ室町後期~戦国時代の関東も、ハンパなく複雑です。 とにかく、「公方」というお方を中心に、 現在の関東全域でスケールのデカい戦いが繰り広げられてましたので。 私が安芸の歴史を複雑だと感じるのは、沢山いるマイナーな国人衆のことを 満足に把握してないせいもある。 が、そうした個人的な事情を差し引くと、 安芸は確かに複雑だけど、たぶんこの関東全域で展開された戦い・・・ 特に道灌さんの周辺の方が、もっと複雑ではないかと思う。 「複雑」よりは「厄介」の方がしっくりくるかな?(笑) いや、厄介なのは「公方」の存在なんだけどね。 とにかくも~、なんつーか・・・ いへ、泣きごとはやめましょう。 地道に頑張ります。 なんたってその辺は、私にとっては郷土史に関わってくるのだ。 「千葉なのに、なんで郷土史?」 って思うでしょ? 来てるんですよ、うちの近くに。 道灌さんが。 解説にある文明11年(1479)の千葉孝胤攻略、 これは臼井城(千葉県佐倉市)攻めのことを言ってるんだと思うんだよね。 孝胤が臼井城に籠城する原因となった戦いが前年の文明10年にありまして、 その合戦がうちの近くで行われたんです。 道灌さんが由来とされる地名も残ってます。 ま、それについては別のところでね。 もっとちゃんと勉強しないと・・・(笑)。 太田道灌といえば、江戸城を築いた方として有名ですが、 私にはそうした縁もあり、ろくに知りもしない近隣の武将よりは よっぽど親しみがあります。 (いや、ホントは単に勉強してないだけなんだけど) なので、ちょうど染井霊園の近くでもあったし、 道灌さんのゆかりということで今回ここを訪れました。 さて、こちらが境内↓。 右の手前に見えてるのが手水舎。 その奥に社務所らしいのがあった。 上の解説に「戦勝の宮」と呼ばれたとあるように、 こちらでは道灌さんの勝守りを扱ってるということだった。 普段なら別に勝守りはいらないんだけど、道灌の勝守りとなれば、 これは是非とも欲しいと思っていた。 ・・・が、社務所は閉まっている。 代わりに貼り紙があって、勝守りは500円とある。 ふむふむ。 その隣の紙には、 【神社にご用の方は午前中にご来社かお電話下さい。】 とある。 ・・・いちおう、午前中なんだけど。 土日は休みなのかな? ともかく、ここは電話で予約しておく方が確実らしい。 本日のメーンエベント(墓参り)がまだだから、 あまりゆっくりしてる訳にもいかないしな・・・ 仕方ない、縁がなかったと諦めよう。 手水鉢の水は綺麗だったので、まずはお清めをしてっと。 龍の口から水が出てるんだけどね、どっちかってーと 「この水、うんめ~!!」 って喜んで飲んでる風に見えて、ちょっとおかしかった。 この龍、やけにまつ毛長いし で、本殿へお参り。 おお~!こんなとこに小早かわ・・・いへ、左三つ巴が。 再建だからね、鉄筋で味気ないのはしょうがないッス。 ちゃんと道灌さんのゆかりを示す碑もある↓。 境内は広くはないけど、この一角だけは木も立派で、 静かでいい雰囲気。 「新編武蔵風土記稿」による、かつての社宝は 【刀一腰、菊一文字の作と云、錆て銘字読へからす、菖蒲作りなり長さ三尺二寸 太田道灌寄附すと云。 木印一顆。八角面径一寸五分松蔭印と云傳ふ、印文滅して読へからす、 相傳ふ観應年中護国親王寄附せらると、護国は宗良親王の御事にて 守邦親王にはあらすと云。 尊意僧正像一体。運慶の作と云長二寸八分、右手に羽扇を持左手に念珠を掛け、 脊に翼あり、天満宮社傳曰法性坊尊意僧正は、延暦寺十三代の座主にて 菅公祈の師なりと。 千手観音像。木像なり、長二寸、文明年中太田道灌戦陣に臨まんとして、 僧圓勧宥鎮二人に修法を命せし時の本尊なりと云作しらず。 曲玉十六顆。 鏡一面。圓鏡径三寸六分に和歌を刻す、増鏡掛てそ頼む神風の吹起すへき 名をも家をも、三楽斎とある、させる古物ともみえず。 板碑一枚。長八寸余の断碑なり、暦應□□□八月日白鳥宮と彫る、是恐らくは 後人のものせしなるへし。】 最後から2つめの鏡、三楽斎って資正(すけまさ)のことだよねえ。 太田さんだもんねえ。 道灌奉納の品は、江戸時代まではあったんだそうな。 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2014年01月04日 21時12分54秒
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