カテゴリ:江戸めぐり
富士見坂を上がりきったとこから下を見下ろす↓。
おお、こっちにも坂の下と同じように道路に富士山がそびえてるう~。 【富士見坂 坂下の北側の墓地は日蓮宗妙隆寺(修性院に合併)の跡。妙隆寺が花見寺と 呼ばれたことから、この坂も通称「花見坂」、または「妙隆寺坂」と称された。 都内各地に残る「富士見」を冠する地名のなかで、現在でも富士山を望むことが できる坂である。】 (現地解説板より) えええ~、ここから今でも見えるの? マジで? でも、この解説の下には「関東の富士見100景」って看板もあるし、 まあ条件のいい時なら見えるのかな・・・ して、解説の付近のフェンスには、なにやら手書きの紙が貼られている。 【お願い。 富士山を見に来た、皆さんにお願いがあります。 わたし達・僕達の大好きな富士山がここから見られなくなると、大人の人達から 聞きました。 ”原因”は、新大久保という所に新しく、大きなビルが立ってしまうからです。 わたし達・僕達では何も出来ないので、”協力”して下さい。 (高くしないで下さい。) 石原東京都知事に、お手紙を書いて下さい。そして、石原都知事もここに来て、 わたし達・僕達の大好きな富士山を見てほしいです。東京で最後の富士見坂を 守って下さい。 日暮里・谷中・千駄木子供代表】 (句読点が多すぎて適度にカット。あとは原文のまま) う~~ん・・・ 富士見坂の上から見渡せる範囲ってのは 写真の通りかなり限られているので、遠くの新大久保にビルが1コ建った程度で 見えなくなるってことは、肉眼だと富士山は相当ちいちゃくにしか 見えないってことなんだろうな。 上の「お願い」には年月日が書かれてないので、 これを見た時点(2012年7月)で富士見問題はまだモメてる最中なのかどうかも わからない。 が、地元の景観を愛する子供達が立ちあがったってことだな。 富士見坂から富士山が見えなくなったら、 「関東の富士見100景」から外さなきゃなんないしね。 その後、どうなったんだろう・・・ さて、ここからは線路に平行する高台エリアの寺社を回ります。 まずは、諏方(すわ)神社。(場所はこちら) ここと、その北にある西日暮里公園にかけてのあたりが 道灌山城のあった場所と推定されてます。 ↑この写真の右側にも寺がありますが、まずは奥の諏方神社の境内へ。 【諏方神社 信濃国(長野県)上諏方社と同じ建御名方命(たけみなかたのみこと)を祀る。 当社の縁起によると、元久2年(1205)、豊島左衛門尉経泰の造営と伝える。 江戸時代、三代将軍徳川家光に社領5石を安堵され、日暮里・谷中の総鎮守として 広く信仰をあつめた。 旧暦7月27日の祭礼では、囃屋台・山車をひきまわし神輿渡御(みこしとぎょ)が 行われた。神田芋洗橋までかつぎ、そこから船で浅草・隅田川を経て、荒木田の 郷で御神酒をそなえて帰座したと伝えている。 拝殿の脇には元禄12年(1699)銘・元禄14年(1701)銘の灯籠型の 庚申塔が並んで建てられている。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換) 「新編武蔵風土記稿」によると、「一寸許なる薄黒き円石を神体とす」とな。 家光より古い文安年間に太田道灌が社領を寄進したとの説もある。 でもこの場所は道灌さんの出城があったとも言われてるんだから、 それなら出城を廃した後に寄進したってことになるのか? ちょっと道灌寄進説は無理があるような気もするけど・・・ ここから南へ通じる道は「諏訪台通り」。 これは諏方神社から来ている名称だと思うけど、字が違う。 「すわじんじゃ」って言ったら、フツー「諏訪」と思うよね。 「諏方」ってのは古い表記で、昔はこちらの名称の方が多かったんだって。 それが現代ではほとんどが「諏訪」の表記になり、 現在1万ほどもある諏訪神社の中で「諏方」としているのは わずかに3~4社ほどなんだそうな。 では、中へ。 人はまばらだけど、境内の奥の方にはちょうちんのカーテンがぶら下がってるし、 屋台もあるし、テキ屋の兄ちゃんみたいのが数人いる。 屋台っていっても営業中ではなく、準備中か撤収中といった風情。 普通の参拝者はほとんどいないから、 木が繁ってちょっと薄暗い境内でテキ屋系兄ちゃんばっかりだと、 なんかちょっとやだな・・・ 落ち着いて見られるかな・・・ そんなことを思いながら参道を進んで行ったら、 道の脇に目の覚めるような狛犬がいた↓。 うおおお~ッ、なんじゃこりゃ!! 身体、黒いんだけど! 口、赤いんだけど! よく見たら、鼻の穴まで赤く塗られてる なんだコレ・・・ ずいぶん斬新なデザインだな~。 その向かいあたりにはこれがあった↓。 由来とかは何も書いてないけど、 まあ忠魂碑ったら忠魂碑でしょう(笑)。 本殿に向かう前に、まずこの建物が目についた↓。 【源為朝公の山車 この人形は山車にしつらえ御輿と共に巡行したもので、平安時代末期武勇に猛けた 「源為朝」鎮西八郎為朝公を擬してある。製作年は安政(1854~1860)と あるが作者は現在不詳。 当時の日暮里諏方様の山車は、江戸の中で最も有名であり且格式の高いもので あった。特に日清戦勝の祝賀会が皇居前広場で行われた時、東京中の山車が 勢揃した。その勢揃の順位が三番目、道中鳶頭連中が木造りと芸者の手古舞を、 二頭の牛車が引いて参列し絢を競ったといわれる。 明治の終わり頃迄は本祭りのたびに牛と子供連中に曳せたが、その後土地の発展に 従い電線等により不可能となり、氏子有志が組織した「祖祟会」が維持管理し 人形だけ飾った。戦後からそれが自然と消滅して、人形は倉庫の中に保管したが その痛みが激しく、このままでは朽ち惜しいということで、金子正男・工藤三郎 両氏相計い昔日の姿に復元したものである。】 (現地解説板より。原文のまま) た~め~と~もお~~~!? いや、まさかこんなところで為朝の名前が出てくるとは・・・!! 為朝の生涯についてはここでは書きませんが、 頼朝の父・義朝の弟。 なので、頼朝・義経にとっては叔父さんにあたります。 ま~、義朝の兄弟ったら個性派揃いでね(笑)。 義朝の弟は5人いますが、うち義賢(よしかた)は木曽義仲のオヤジ、 行家はのちに令旨を持って精力的に各地を回って平家打倒のハッパを かけて回ります。 で、為朝といえば・・・ 一口で言って、暴れん坊? 幼い頃から剛勇で鳴らし、身長は七尺ほど(2m10cm)の大男。 私が為朝のことを知った時大笑いしたのが、 左腕が右腕よりも4寸(12cm)も長かったというエピソード。 体格に恵まれていたせいもあって、生まれつきの強弓の名手だったという。 12cm違うって結構だよね。 為朝が洋服を着る時代に生まれてたら、 合う洋服がなくてさぞ難儀したことだろう。 特注か母ちゃんに縫ってもらうしかないよな(笑)。 やんちゃパワーは兄達に対しても向けられ、 もてあました父・為義から豊後に追放され、 一時鎮西(九州)に住んでた8番目の子ってことで 鎮西八郎の名で呼ばれる。 まあ、別に日暮里が為朝ゆかりの地って訳じゃなく、 為朝の人形があるってだけの話なんだけど。 ただ、この解説はあっても残念ながら為朝の人形が見られる訳じゃない。 復元されて、今はこの中にあるってことなのかな・・・ にしても、牛車で曳いたとか芸者が出たとか、 江戸の名残だなあ~ってカンジ。 山車にも格式があるのね。 神社の格で決まるのかな? でも、大きい神社なら他にもいっぱいあると思うんだけど・・・ 勢揃いした山車の1番手と2番手はどこの山車だったんだろ? にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2014年01月04日 21時09分16秒
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