カテゴリ:江戸めぐり
案内に従ってまず来たのは、本因坊家の墓。
【「本因坊」の由来 囲碁の本因坊家は江戸時代に成立した四家元の一つ(他には井上、安井、林の各家) です。また「本因坊」の名称は、京都・寂光寺の塔頭の一つ本因坊において、日海 (後の算砂)が居住していたことに由来します。 算砂は本因坊家の初代頭領として興隆への道を切り開き、囲碁界最高の名誉である 「名人・本因坊」に叙せられ、また1603年(慶長8)、江戸幕府から初代の 「碁所(ごどころ)」に任ぜられました。 「碁所」とは、江戸城において将軍の御前で対局をする「御城碁」の棋士の手合いを 差配したり、棋士の段位を定めたり、免状の発行権をもつなど、囲碁界最高の地位を 保障された棋士です。 碁所をめぐって四家はしばしば熾烈な争いを展開しましたが、その中で頂点に 立ったのが本因坊家であり、庶民への広まりも含めた碁界の隆盛に貢献しました。 その理由に実子相続を前提とする世襲制ではなく、弟子のなかで優れたものが相続する 実力制だったことが挙げられます。 本妙寺は創立後何度も場所をかえ、1910年(明治43)現在地へ移転しましたが、 その時に墓所の配置はほぼ現在の形となり、四世本因坊道策より二十一世秀哉に 至るまで、本因坊代々の棋士と縁の人々が祀られております。】 (現地解説板より) そして墓石の配置図がこれ。 囲碁は全くわかりませんが、ここに来たのは算砂が戦国時代の人だったから。 信長・秀吉・家康と三英傑の御前で対局した経歴を持ち、 信長様には「そちはまことの名人なり」と褒められて、 これがいわゆる「名人」の言葉の起こりだとも言われている。 ま、上の解説にもあるように、ここにあるのは四世以降の墓で、 残念ながら算砂の墓はここにはない。 算砂の墓は、古巣である京都・寂光寺にあるんだって。 それでもほとんどの本因坊の家元の墓はここにあるし、 囲碁をやってる人にとっては聖地みたいなもんなのかな~ なんてぼんやり考えながらお参り。 お次はこちら~。 幕末好きの人にはおなじみ、千葉周作先生のお墓です。 千葉先生は剣術、北辰一刀流の創始者。 「力の斎藤」「位の桃井」「技の千葉」として、幕末の江戸三大道場と称された。 周作先生の玄武館はお玉が池にあり、実用的な剣術で習得のシステムも 他と比べてシンプルだったため、絶大な人気を博したと。 お玉が池の卒業生が、清河八郎とか山岡鉄舟とか山南敬助。 周作先生の弟が定吉さんで、龍馬さんはこちらの門下生ね。 定吉さんは桶町に道場を構えたので、桶町千葉とか小千葉と呼ばれる。 龍馬さんの婚約者ともいわれる千葉さな子さんは、この定吉先生の娘。 ちなみに、龍馬さんより遅れて江戸に来た武市半平太は、桃井に入門している。 私がこれまでお墓参りした中では、あまりお花が供えられてるところって なかったけど、ここには真新しい花が一輪・・・ この時、写真付きでツイートもしたけど、 さすが周作先生、アクセス数もかなりあった。 最後はこちら~。 【東京都指定旧跡 遠山景元墓 遠山景元は、江戸時代後期の幕臣で寛政5年(1793)遠山景普(かげみち) の子として生まれた。 文化6年(1809)金四郎と改名し、文政12年(1829)家督を相続、 天保7年(1836)左衛門尉を許され、作事奉行、勘定奉行を経て天保11年 (1840)3月町奉行(北)に任ぜられた。翌年から老中水野忠邦による 天保改革が始まったが、その進行中の天保14年(1843)町奉行を罷免され、 大目付に異動させられた。 弘化2年(1845)町奉行(南)に復帰し、嘉永5年(1852)3月まで 7年間にわたり勤務した。 下情に通じた江戸時代屈指の名奉行といわれ、遠山の金さんとして様々な伝説がある。 江戸歌舞伎三座取りつぶし策を、浅草の外れに移転させて存続させたのも遠山町奉行と いわれている。隠居後は剃髪して帰雲と号し、市井に身をひそめて悠々自適の生活を 送ったが安政2年(1855)2月29日61歳で病死した。 法名帰雲院殿従五位下前金吾校遷日享大居士。明暦の大火(1657)の 火元となったことでも知られる、本郷丸山の徳栄山本妙寺に葬られたが、 本妙寺が明治44年この地に移転した時に改葬された。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換) そうです、遠山の金さんです いやでも、金さんて江戸中期頃の人かと思ってた。 もう幕末じゃんね~。 金さんは皆さま御存じの通り、実に色んな人が演じてる。 杉サマもカッコ良かったけど、西郷輝彦の「江戸を斬る」も良かったよな~。 松坂慶子とのコンビが 写真には写ってないけど、実は金さんの墓の周りは立入禁止だった。 震災の影響で、倒壊のおそれがあるからって(2011年7月時点)。 こんな所にも、震災の爪あとが・・・ さて、これで私のここでのお目当ては終わり。 でもね、まだ他にも有名人のお墓はあるんですよ。 そもそも、ここ本妙寺の沿革は次のようなもの。 【当山は、山号を徳栄山と称す。これは、徳川家が栄えるようにとの願いで つけられたものである。 ご承知のように徳川家発祥の地は三州岡崎(現在の愛知県岡崎市)である。 岡崎の近郊に法華宗の海雲山長福寺という古刹がある。長福寺の檀徒で徳川家に仕えた 久世広宣、大久保忠勝、大久保康忠、大久保忠俊、阿部忠政等が、元亀2年 (1572)家康公が岡崎から遠州曳馬(現在の浜松市)へ入城に際し、 智存院日慶上人にお願いして同地に創立された寺が、当山である。 天正18年(1590)家康公が関東奉行として江戸入城に際して、当山も久世家、 大久保家等と共に江戸へ移転した。 当初は江戸城清水御門内の礫川町へ移建されたが、城域拡張に伴い飯田町、 牛込御門内、小石川(今の後楽園)へと移動させられている。】 (本妙寺様のホームページより。漢数字は戦国ジジイが変換) 久世家を始め、大久保・阿部など幕臣の庇護を受け発展したが、 寛政年間に全焼。 その後の復興に尽力したのが、久世大和守広之だそうな。 この時に小石川から本郷丸山に移転して、そしてその数年後に明暦の大火・・・ なので、久世家歴代のお墓があるのだ。 ただ、三河武士団についてはほとんど知らないし、 久世さんちはちょっと聞いたことがあるな~くらいだったので、 今回は墓参りは遠慮させて頂いた。 本妙寺のホームページには、本郷5丁目付近には「本妙寺坂」って地名が 現在も残ってると書いてある。 なら、明暦の大火は、東大の赤門の近くから出火したってことか~? その他に、天野宗歩(江戸後期の将棋棋聖)、森山多吉郎(日本最初の通訳)があり、 いずれも史跡となっている。 日本最初の通訳って、ジョン万かと思ってた・・・(笑) にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2014年01月04日 21時15分53秒
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