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戦国ジジイ・りりのブログ

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2012年05月23日
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カテゴリ:江戸めぐり
案内に従ってまず来たのは、本因坊家の墓。

       巣鴨・本妙寺・本因坊家の墓2


 【「本因坊」の由来
 
  囲碁の本因坊家は江戸時代に成立した四家元の一つ(他には井上、安井、林の各家)
  です。また「本因坊」の名称は、京都・寂光寺の塔頭の一つ本因坊において、日海
  (後の算砂)が居住していたことに由来します。

  算砂は本因坊家の初代頭領として興隆への道を切り開き、囲碁界最高の名誉である
  「名人・本因坊」に叙せられ、また1603年(慶長8)、江戸幕府から初代の
  「碁所(ごどころ)」に任ぜられました。

  「碁所」とは、江戸城において将軍の御前で対局をする「御城碁」の棋士の手合いを
  差配したり、棋士の段位を定めたり、免状の発行権をもつなど、囲碁界最高の地位を
  保障された棋士です。

  碁所をめぐって四家はしばしば熾烈な争いを展開しましたが、その中で頂点に
  立ったのが本因坊家であり、庶民への広まりも含めた碁界の隆盛に貢献しました。
  その理由に実子相続を前提とする世襲制ではなく、弟子のなかで優れたものが相続する
  実力制だったことが挙げられます。

  本妙寺は創立後何度も場所をかえ、1910年(明治43)現在地へ移転しましたが、
  その時に墓所の配置はほぼ現在の形となり、四世本因坊道策より二十一世秀哉に
  至るまで、本因坊代々の棋士と縁の人々が祀られております。】
  (現地解説板より)


そして墓石の配置図がこれ。

         巣鴨・本妙寺・本因坊家墓石配置図


囲碁は全くわかりませんが、ここに来たのは算砂が戦国時代の人だったから。

信長・秀吉・家康と三英傑の御前で対局した経歴を持ち、
信長様には「そちはまことの名人なり」と褒められて、
これがいわゆる「名人」の言葉の起こりだとも言われている。

ま、上の解説にもあるように、ここにあるのは四世以降の墓で、
残念ながら算砂の墓はここにはない。

算砂の墓は、古巣である京都・寂光寺にあるんだって。

それでもほとんどの本因坊の家元の墓はここにあるし、
囲碁をやってる人にとっては聖地みたいなもんなのかな~
なんてぼんやり考えながらお参り。



お次はこちら~。

       巣鴨・本妙寺・千葉周作の墓

幕末好きの人にはおなじみ、千葉周作先生のお墓です。

千葉先生は剣術、北辰一刀流の創始者。
「力の斎藤」「位の桃井」「技の千葉」として、幕末の江戸三大道場と称された。

周作先生の玄武館はお玉が池にあり、実用的な剣術で習得のシステムも
他と比べてシンプルだったため、絶大な人気を博したと。
お玉が池の卒業生が、清河八郎とか山岡鉄舟とか山南敬助。

周作先生の弟が定吉さんで、龍馬さんはこちらの門下生ね。
定吉さんは桶町に道場を構えたので、桶町千葉とか小千葉と呼ばれる。
龍馬さんの婚約者ともいわれる千葉さな子さんは、この定吉先生の娘。

ちなみに、龍馬さんより遅れて江戸に来た武市半平太は、桃井に入門している。


私がこれまでお墓参りした中では、あまりお花が供えられてるところって
なかったけど、ここには真新しい花が一輪・・・

この時、写真付きでツイートもしたけど、
さすが周作先生、アクセス数もかなりあった。



最後はこちら~。

        巣鴨・本妙寺・遠山景元の墓


 【東京都指定旧跡 遠山景元墓

  遠山景元は、江戸時代後期の幕臣で寛政5年(1793)遠山景普(かげみち)
  の子として生まれた。

  文化6年(1809)金四郎と改名し、文政12年(1829)家督を相続、
  天保7年(1836)左衛門尉を許され、作事奉行、勘定奉行を経て天保11年
  (1840)3月町奉行(北)に任ぜられた。翌年から老中水野忠邦による
  天保改革が始まったが、その進行中の天保14年(1843)町奉行を罷免され、
  大目付に異動させられた。

  弘化2年(1845)町奉行(南)に復帰し、嘉永5年(1852)3月まで
  7年間にわたり勤務した。
  下情に通じた江戸時代屈指の名奉行といわれ、遠山の金さんとして様々な伝説がある。
 
  江戸歌舞伎三座取りつぶし策を、浅草の外れに移転させて存続させたのも遠山町奉行と
  いわれている。隠居後は剃髪して帰雲と号し、市井に身をひそめて悠々自適の生活を
  送ったが安政2年(1855)2月29日61歳で病死した。

  法名帰雲院殿従五位下前金吾校遷日享大居士。明暦の大火(1657)の
  火元となったことでも知られる、本郷丸山の徳栄山本妙寺に葬られたが、
  本妙寺が明治44年この地に移転した時に改葬された。】
  (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)


そうです、遠山の金さんですさくら

いやでも、金さんて江戸中期頃の人かと思ってた。
もう幕末じゃんね~。

金さんは皆さま御存じの通り、実に色んな人が演じてる。
杉サマもカッコ良かったけど、西郷輝彦の「江戸を斬る」も良かったよな~。
松坂慶子とのコンビがピンクハート

写真には写ってないけど、実は金さんの墓の周りは立入禁止だった。
震災の影響で、倒壊のおそれがあるからって(2011年7月時点)。
こんな所にも、震災の爪あとが・・・



さて、これで私のここでのお目当ては終わり。
でもね、まだ他にも有名人のお墓はあるんですよ。

そもそも、ここ本妙寺の沿革は次のようなもの。

 【当山は、山号を徳栄山と称す。これは、徳川家が栄えるようにとの願いで
  つけられたものである。

  ご承知のように徳川家発祥の地は三州岡崎(現在の愛知県岡崎市)である。
  岡崎の近郊に法華宗の海雲山長福寺という古刹がある。長福寺の檀徒で徳川家に仕えた
  久世広宣、大久保忠勝、大久保康忠、大久保忠俊、阿部忠政等が、元亀2年
  (1572)家康公が岡崎から遠州曳馬(現在の浜松市)へ入城に際し、
  智存院日慶上人にお願いして同地に創立された寺が、当山である。

  天正18年(1590)家康公が関東奉行として江戸入城に際して、当山も久世家、
  大久保家等と共に江戸へ移転した。
  当初は江戸城清水御門内の礫川町へ移建されたが、城域拡張に伴い飯田町、
  牛込御門内、小石川(今の後楽園)へと移動させられている。】
  (本妙寺様のホームページより。漢数字は戦国ジジイが変換)


久世家を始め、大久保・阿部など幕臣の庇護を受け発展したが、
寛政年間に全焼。
その後の復興に尽力したのが、久世大和守広之だそうな。
この時に小石川から本郷丸山に移転して、そしてその数年後に明暦の大火・・・

なので、久世家歴代のお墓があるのだ。

ただ、三河武士団についてはほとんど知らないし、
久世さんちはちょっと聞いたことがあるな~くらいだったので、
今回は墓参りは遠慮させて頂いた。


本妙寺のホームページには、本郷5丁目付近には「本妙寺坂」って地名が
現在も残ってると書いてある。

なら、明暦の大火は、東大の赤門の近くから出火したってことか~?



その他に、天野宗歩(江戸後期の将棋棋聖)、森山多吉郎(日本最初の通訳)があり、
いずれも史跡となっている。
日本最初の通訳って、ジョン万かと思ってた・・・(笑)


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最終更新日  2014年01月04日 21時15分53秒


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