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戦国ジジイ・りりのブログ

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2013年11月04日
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カテゴリ:江戸めぐり
今度は勅額門の前に立つ灯籠。
まずは向かって右側から↓。


      上野・寛永寺・徳川家綱霊廟勅額門28


      上野・寛永寺・徳川家綱霊廟勅額門21


      上野・寛永寺・徳川家綱霊廟勅額門27


 【武州 東叡山  厳有院殿 尊前
  延宝九年辛酉五月八日
  丹後宮津城主  従五位下對馬守阿部正盛】


「阿部正盛」で検索すると、誰だかわからないんだよね~、この人。
が、将軍家の霊廟に奉納するくらいだから、当然当主のハズ。

阿部氏で丹後宮津藩主になったのは宗家のみ。
しかも、丹後在任期間は短かったので、どうもこの正盛さんは
阿部正邦のことじゃないかと思います。

正邦の家督相続の際には家中でもめごともあり、
岩槻藩で当主人生がスタートするも10年で丹後宮津へ転封。
16年後には下野宇都宮藩へ転封、そして13年を経て備後福山藩へ転封となった
完璧な転勤族。
譜代と言っても、甘くないんだね~ショック

ま、転勤しても石高はいちおう横ばいで減らされることはなかったようだけど、
それでも江戸から遠い福山への転勤が決まった時は52歳という年齢でもあり、

「ハア、もう困っちゃったな~」

って述べたという。
で、この正邦さんが阿部氏初代福山藩主となり、
以後の福山藩は幕末まで阿部氏が続きます。



今度は向かって左側↓。


      上野・寛永寺・徳川家綱霊廟勅額門42


      上野・寛永寺・徳川家綱霊廟勅額門33


 【武州 東叡山  浚明院殿 尊前
  天明六丙午年九月八日
  三州西尾城主】

片側は銘がちゃんと写ってないし、もう一方は肝心の名前の部分が欠損してて
誰の奉納だかわからない雫

が、これ厳有院(家綱)への奉納品じゃないぞ。
「浚明院」は10代・家治の諡号だな。
吉宗の孫にあたる方ね。

時期から調べると、たぶんこれは松平乗完(のりさだ)の奉納だな。


なんで家綱の霊廟門の前に家治への灯籠なんかあるんだろう・・・
かつて寛永寺の境内は広大な敷地だったのが、
明治に入ってかなり縮小されたから灯籠の置き場に困って
こんなとこに置いちゃったのかとも思ったけど、
家治は家綱の霊廟に合祀されたとあるので、これはこれで正しいのか。

家治は祖父・吉宗以上に倹約に努めたという。
そして吉宗はそれまでの将軍のように埋葬を派手にするのではなく、
死後も霊廟の大部分を省略して質素にするようにした方。

なので、家治も祖父の定めたルールに従って、
自分専用の霊廟が新築されることもなく、
合祀という形になったものらしい。


ちなみに、吉宗以前の霊廟建築がどんなものだったのか、
寛永寺発行の『寛永寺』によると、

 【霊廟は大きく分けて、二天門、勅額門、鐘楼、水盤舎、井戸屋形、中門、
  廻廊、供所、拝殿、相之間、本殿、仕切門からなる霊廟の中の「霊」の部分と、
  唐門、拝殿、中門(鋳抜門)、宝塔からなる「廟」(墓)の二つの部分から
  なっている。

  前者は本尊、木像、位牌を祀った本殿(霊殿)を中心にした部分であり、
  後者は将軍の遺骸を祀った宝塔(墓)を中心とした部分である。江戸中期までの
  幕府は一人一人の将軍のために、こうした壮大な建物を造営していたのである。】

だそうな。
これは相当な出費だよな~。



家治は吉宗からは殊の外可愛がられたようで、
家治も偉大な祖父をこよなく尊敬していたらしい。
ちょっと家光を彷彿とさせるよな。

ので、どうせ合祀するんだったら
じい様と一緒にしてやればよかったのに・・・とか思った。
はい、暴れん坊将軍・吉宗さんもここ寛永寺墓地に眠っております。


家治の代は田沼意次が活躍した時代でもあり、
ウィキペディアにはなかなか面白いエピソードがいくつか紹介されてるけど、
ひとつ思わず吹き出した話をご紹介しましょう。


 【徳川将軍家では例外的に愛妻家であった。正室・倫子女王との間に2女を儲けるも
  (これ自体が異例)、男子を得る事ができなかった。近臣が側室を薦めても
  なかなか選ばず、遂に田沼意次の薦めで側室を選ぶ代わりに田沼も側室をもつことを
  条件にした。】


「ああ~?側室う~?
やなこった!」


「しかし上様、継嗣を残すことも重要なお役目ですぞ。
このままでは、徳川家は・・・」


「チッ!しょうがねえなあ・・・
なら、お前も側室を持てよな」


「え・・・・・っっっ!!雫


そしてめでたく男子が生まれると、その子は愛妻のもとで養育させ、
用済みの生母のところには通わなくなったという泣き笑い

子作りの道具にされた側室は可哀想だけど、
政略結婚でも夫婦仲がよいというエピソードはちょっとなごみます。



      上野・寛永寺・徳川家綱霊廟勅額門43



さて、この御門、家綱の霊廟の門ではありますが、
元々家綱のために造られた門ではないという話があります。
では何だったのかというと、家光の霊廟の門だというんです。

つい先日、日光の大猷院を少し紹介したばかりですので、
なんで上野で家光なのかと思う方もおられるかもしれませんが、
家光さんは死後しばらく上野におられたんです。

寛永寺の歴史やその創始者については後でまとめて書くつもりですが、
ひとまず関係することだけを書きますと、
家光は死ぬ前に寛永寺に葬儀を任せること、
初七日には上野を出発して日光へ移送し、日光に自分を葬るようにと
あらかじめ指示しておいたそうな。

そんなねえ~、現代の葬儀屋さんのようにスピーディーに葬儀ができる訳でも、
電車や車で日をまたがないうちに日光入りできる時代でもないし、
ましてパンピーじゃなく将軍の葬儀と埋葬だよ?

家光の薨去は慶安4年(1651)4月20日。
翌承応元年(1652)2月16日に大猷院が起工され、
承応2年(1653)4月4日に完成・・・と「大猷院(2)」に書いたように、
着工が約1年後、完成が2年後。

日光大猷院の完成までの間、家光自身はどこにおられたのか・・・
はっきりした事はわからない。
輪王寺の刊行物にでも書いてないかな。
近々また日光へ行くから、探してみよう。

ま、ともかく初七日まではおそらく寛永寺で保管してたんでしょうし、
かつての寛永寺には慶安4年(1651)に建立された家光の霊廟が確かにあった。
ただし、上野の家光の霊廟は享保5年(1720)に焼失してしまったそうで、
その後は再建されず、霊牌は厳有院霊廟に合祀されたという。

たぶん、日光に立派な大猷院廟があるから
あらためて上野に再建しなくてもいいと思ったんじゃないかね(笑)。

家光廟についてはそういう経緯があるので、
家光の勅額門を家綱に転用したというよりは、
合祀に伴う移築だったのかもね。

ただ、家綱の死は延宝8年(1680)。
そこから40年後に家光が合祀されてるんだから、
その当時、家綱廟もちゃんと自分の勅額門を持ってたはずで、
オリジナルの家綱霊廟勅額門は一体どうしたんだ?って疑問が残る。
享保5年に家光霊廟と一緒に焼失でもしたのかね?




さて、次のお目当てを目指します。
まだこの先も長い道。
あ~つ~い~雫


      上野・寛永寺霊園3


コーナーまで来たあたりで、霊園内に何やら気になるものがあって
もう目が釘付け・・・↓。


      上野・寛永寺霊園5


なに、あの立派な石垣・・・
櫓台?泣き笑い

いやいや、でもね、この辺て寛永寺ができる以前は
武家の敷地だったんですよ。
そして、今回の上野めぐりの中には土地所有者のうちの1人の武将が
お目当てに入ってますのでね。
つい、そーゆー想像をしちゃうんだよね。

まあ、もちろん江戸開幕以後にもらった領地だから、
江戸城からほど近い上野の山に櫓なんか築くはずはないんだけどね。

あ~、あの石垣近くで見たいなあ・・・
寛永寺創建以前の遺構ってことはないのかなあ、アレ。


突き当たり付近まで来たところで駐車場の入口があり、
その奥に次のお目当てが見えたので入ってみた。
が、右手にすごいものが目に入ったので、
吸い寄せられるようにふらふらと・・・


      上野・寛永寺霊園6


      上野・寛永寺霊園7



      上野・寛永寺霊園9



これ、さっき塀の外から見えてた石垣だあ~ダブルハート
一部「はつってる」ような石もあるし、これは明らかに近代に積まれたものじゃない。
一体、何のために積まれた石垣なんだろう・・・

この寛永寺は、江戸城からは北東の高台にある。
寛永寺と徳川家との関係はそれは深いふか~いものなので、
あるいは出城としての機能も持たせていたとか・・・
と、つい戦国ファンならではの戦闘的な想像が頭を駆け巡る。

が、今回墓地へは入ってないのではっきりした場所はわからないけど、
この付近にも将軍だとか徳川家の方達の御廟があるので、
あるいは石垣の上の高い場所にはそうした高貴な方達が眠っているのかもしれない。

それにしても綺麗な石垣だこと・・・
駐車場の方へ戻って、続きの石垣を眺める↓。


      上野・寛永寺霊園10


アラ、こちらはちょっと・・・(笑)
この面は道路側からは見えない。
大々的に目につかない場所の石垣の表情が若干変わるのは、
日光も上野も同じなんだなとちょっとおかしくなった。

にしても、石垣の前に積まれてるのって灯籠の台座だよな。
ずいぶん沢山あるんだけど。
本体はどこ行ったんだ、本体は?



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最終更新日  2014年02月08日 13時15分00秒


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