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カテゴリ:バブル世代考
![]() 私と同じ苗字@@、は日本で200人から230人ぐらいしかいない。その内20人は私の親戚である。 苗字だけで画数が39画。 書くだけでも面倒くさい姓なので、一体どういう姓なのか調べてみた。 この苗字を使う一族は現在の愛知県犬山市、戦国時代の尾張国の北部に@@庄という荘園を持っていたらしい。 1557年織田氏の末流の家で産まれた男子が、2才で両親と死に別れ、自分の祖父であった上記の@@荘園の主である@@善右衛門の家に養子に入った。この子供はは織田信長と同じ曾祖父(織田敏定)を持っている。そして養子入りしてからは、@@三蔵吉勝と名乗った。 その@@家は代々織田家に仕えており、三蔵吉勝も織田信長に仕えることになった。 この@@善右衛門と三蔵吉勝は、織田信長の妹のお市が浅井長政に嫁ぐ際に他の織田の家臣と共にお供、侍従として2人とも浅井長政の小谷城に配置された。つまり形の上では浅井家の家来になった。 1573年浅井長政と織田信長が対立して、浅井氏の小谷城が落城した際に、@@吉勝と@@善右衛門は、お市の方とその娘3姉妹を生き残らセルために共に小谷城を脱出して織田信長の岐阜城に帰参した。史実では羽柴秀吉が救出したような文献もあるようだが、羽柴秀吉は迎えに行っただけで、実質は@@の2名が事前に落ち延びる道を確認して、夜陰に乗じて逃がしながら岐阜に向かったと思われる。 お市はその後、柴田勝家と再婚して最終的には越前国の北の庄城で柴田勝家と共に自害した。 お市の娘は、茶々、初、江である。 茶々は秀吉の側室となり世継ぎを産んで「淀殿」となり、1615年豊臣家の大阪城落城で自刃した茶々であり、初はその後京極高次の正室となった。江は最終的に徳川秀忠の正室となったお江である。 この母娘の4人は私の先祖が救出しなければ生きていなかった(かどうかは分からないけど)ので、それほど物凄い仕事をしたことになる。 浅井長政が滅んで、羽柴秀吉に長浜城が与えられた。織田信長の四男於次丸が、1577年に羽柴秀勝として8歳で秀吉の養子となった。この際、@@吉勝から@@永勝に改名していた先祖は20歳であったが、織田信長の任命で、於次丸の傅役もりやく、として於次丸に従って長浜城に入り羽柴秀吉の家臣に組み込まれた。この頃、彼の祖父、@@善右衛門は亡くなっている。 於次丸(羽柴秀勝)は秀吉と共に中国攻めに参戦し、中国大返しでは織田信長の嫡男として山崎の戦いに織田信雄と共に参戦し、明智光秀と戦った。明智光秀が死んで、於次丸(羽柴秀勝)には明智光秀の居城であった丹波亀山城が与えられて、戦国大名となった。 この時秀勝は15歳、私の先祖@@永勝は25歳。 羽柴秀勝は賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦いに参戦。私の先祖も一緒に戦っていたと思われる。 お市のお供として浅井の小谷城に入り浅井長政の家臣となり、滅亡寸前に小谷城を脱出するとか、於次丸に傅役として付添って羽柴秀吉の臣下に入るなど、永勝には特殊な役目が多かったと思われる。多分織田信長方の間者との繋ぎ役としても暗躍したのかなと想像してしまう。いやもしかすると本人も間者としての働いたのかもしれない。 羽柴秀勝は病弱であり、18歳で丹波亀山城で病死した。その後は丹波亀山城に入った別の羽柴秀勝(小吉秀勝)に仕えたのではないかと考える。(ややこしいのだが、羽柴秀勝は2人いる。) 小吉秀勝も1592年に23歳で亡くなってしまった。この頃@@永勝は丹波に13000石の知行を貰い、小国なりに戦国の末端の大名となって、@@三河守永勝と名乗った。 1600年の関ヶ原の戦いでは、西軍に与して細川幽斎の籠る田辺城攻めに参加した。これは形だけの城攻めで細川幽斎も僅か500人で籠城して持ち堪えたという。 形だけ西軍としての参戦だったため、一旦は没収された領地も、徳川家康に取り潰される事なく、しかし13000石から6000石に減封されて京都丹波に所領を安堵され、@@永勝は幕府の大身旗本として残り、@@家は明治維新まで旗本で存続した。さて、推測だが、取り潰されなかったのは、永勝が救出したお江が1595年に家康の息子2代将軍秀忠に嫁いだことから、息子の嫁の恩人としてのお目こぼしがあったと思われる。 多分ここまではかなり調べたから史実だろう。 @@永勝は織田信長や豊臣秀吉と何度も会っているし、徳川家康とも御目見しているだろう。 ここからが重要。 よくよく考えると、養子に行って私の名字に変わり、関ヶ原の戦いで西軍で参加し、最終的に徳川幕府の大身旗本になったこの@@永勝は、私の先祖に違いないだろうし、私がこの先祖と同じ名字を今でも使っているのは何らかの理由があるに違いないのだが、私の家が今でもこの苗字を使っているというだけで、直系の子孫(家)ではないだろうし、どこの時代の誰から分かれて商家になった分家なのかは全く分からない。分かるのは私の祖父宗三郎は浅草の生まれで、私の曽祖父源五郎も明治15年には浅草に居たらしいという事だけ。 さて、この旗本になった戦国時代の人物から数えて私は何代後の世代なのだろうか? 一般的に400年前の先祖は何人居るかご存知だろうか?? あなたの400年前の先祖は何人だろうか? 私には父と母がいる。誰にでもいる。また誰にでも祖父と祖母がいるはず。誰にでも祖父と祖母が、2人✖️2人の、4人がいるはず。 仮に20年で一代のタームとする。 すると400年前の先祖は、20才で一代とすると、20代前の曽祖父とか、曽祖母?になるが、、 2人✖️2人✖️2人✖️......を20代かけると、な、な、なんとっ! 104万人を超える。 52万人の男と52万人の女の先祖がいるのである。 一代を、仮に、20年ではなく25年の代替わりタームとしても、 私の、 あなたの、 500年前の先祖は、104万人も居るのである! つまり、織田信長の親戚だった養子に出た@@永勝なる人は、私の血の中では104万分の1のDNAしかないのだ。だから最終的に旗本になったこの戦国時代の先祖のDNAを私が継いでいる筈はない。(104万分の1は無いのと同じ。) たまたま、偶然、その人の名字を私が今でも使っている、引き継いでいるというだけの話しである。 1580年ごろの日本の人口がどれだけいたか知らないが、500万人ぐらいか? だとしたら、もはやこれを読んでる人全ての人と私の間には血縁関係があるのではないか? さっきは、たまたま20代前まで計算したが、ではあと200年遡って、30代前まで計算すると、あらビックリ!この私の携帯電話の計算機では29代までしか数字が出て来ないのだが、29代で、先祖は5億3千600万人を超える。直系で5億人である! 西暦1250年とか1300年の日本で5億人の人口が居た筈はないから、この5億人を超える先祖達の中に、重複している人、或いは兄妹、従兄弟なんかが沢山いるはずで、そうしないと5億人の説明がつかない。(競馬の血統で「クロス」といいますね。) 意味わかる??この意味わかります?? こうなると間違いなく現在の全日本人は血縁関係があるし、全世界の人も1万年〜2万年前は同じ血族を祖とする血縁関係が確実にありますね。 つまり、何千億分の1かもしれないが私とウサマビンラーディンは血縁があり、私とカルロスゴーンも血縁があって、私とバイデン大統領は血縁者で、私の血縁者がタリバンにいる。また私と秦の始皇帝は血縁者で、私とナポレオン・ボナパルトも同じ祖先を持っている。 私と松田聖子と大谷翔平と木村拓哉は同じ先祖を持っていて、私と徳川家康も血縁関係があるし私と三島由紀夫も同じ先祖がいるという事実(多分事実)が浮かび上がってくる。 そうなると日本人であればほとんど全て同じ人と言っても過言でないほど似ている人々なのではないか?という仮定が出来る。ほとんど均質な人達だけど、個性がほんの少しずつ違うとか、その程度の差ではないだろうか? 悪人も善人も皆血縁者なのではないか。 ここまで考えるとやや頭が破裂しそうになるのでもうやめます。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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