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日記はこれから書かれるところです。

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2005.10.14
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題が題だけにリリックに入りたいのだが、そこは勘弁願いたい。

でも、俺が日本国憲法テクストのなかで、二番目に好きなところを引用することでそれに代えたい。ここはちょっと詩的なんじゃないかって思ってる。不器用でぎこちないが、多くの人の手を経て、それぞれの手脂によって深みのある艶を出した茶器のような味のある豪胆さが感じられる。


第97条
この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。


俺は、日本国憲法テクストのこの部分に「立憲主義」の精神が顕れていると考えている。
なぜに、日本という国の学校教育は、この部分を教えないのか気になってならない。カタログ化された権利の前に、この精神を教えなければ現代民主主義=立憲主義国家の成員として、それを有効に活用することはできまい。もし、成員の歴史的営為としての活用が無ければ、民主主義という体制自体が死んでしまうのに。



■予備的問題としての精神的自由

少し憲法学というものを齧った人間は、「二重の基準論」という用語を知っているはず。
これは最高裁の法令審査において、経済的自由を規制する立法に対しては「緩やかな審査(つまり、立法裁量を認めやすい)」を行い、精神的自由を規制する立法には「厳格審査(つまり、厳しく違憲判断)」を行うべきだという、憲法学史的に涵養された理論のこと。通説といえる。

つまり、精神的自由は「最大限に最大限に最大限に尊重されるべき」ということである。

もし国会の多数派が規制しようとした場合、その判断に対して、最高裁判所は人権の砦として、積極的に介入するということである。

理由がよく司法試験で聞かれたりするようであり、またこれには多くのアプローチがあるが、

・「表現の自由」等の精神的自由は、民主制に不可欠な要素であり、それが損なわれることは「民主制の自殺」に等しいという理由。
・精神的自由は(経済的自由よりも)、人間の人格に密接に関連しており、個人主義の大原則として、自ずから価値が高いという理由。

などが挙げられよう。


■国会多数派(あるいは「民意」)の怖さ

こうした理由は大切だろうと思う。
しかし、俺はやはり(97条に絡めて)、歴史的に精神的自由が脅かされやすかったことと、その悲劇から学びつつ鍛えられてきた<強度>こそが、理由として相応しいと思う。

そこからは、現代民主主義を生きるわれわれが守らなければならない価値がわかるし、さらに、時の権力者が「誤りやすい」事柄が理解される(これをジェニ子さんへの一応の回答とします)。

翻って今の日本という国の議会を見れば、議会的多数を背景に、まさに経済的自由規制の緩和と、精神的自由規制の強化が図られている。これは、うえにみた通説の考え方とは、全く逆をやっていることになる。多数とはそういう怖さを持つものなのだ。

歴史から学ばない態度とはこれを言うのだろう。あるいは、この国の首相には、そうした知識などないのかもしれないが。


■表現の自由というカナリア

歴史的に繰り返されてきた「試練」が、今またなされようとしている。人間はそれだけ間違いやすい。
歴史は、人類の愚かな行為を学ぶのに相応しく、神話として有難がるのには相応しくないと俺は思っているのだが、それは兎も角、今回も「愚行」という「歴史的試練」が権利の歴史に書き込まれようとしている。

そう、よく考えればわかる。

大切なものは壊れやすい。表現の自由は炭鉱のカナリアである。民主主義がおかしくなるとき、表現の自由からやられていく。

表現の自由は最も弱いものなのだ。


■フィクションに力を

フィクションというものは弱い。時の権力者によって、簡単に捻じ伏せられる。現代民主主義もフィクションなら、立憲主義だってフィクション、表現の自由だってフィクションだ。

フィクションは弱い。

しかし、人間は歴史的営為において、それに力を与えることを覚えてきた。そのフィクションにおいて、より良い社会を求めてきた。



弱さゆえに



弱さゆえに、われわれが日々そこに生命を吹き込み続けなければならない。





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Last updated  2005.10.15 01:40:22
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