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日記はこれから書かれるところです。

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2005.10.19
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この題で書くと予告し、五編も遅れて書く理由は、この題が射程とする興味関心の幅に広がりがあって、しかもそれが日に日に動き続けたからであった。

そして今日に至っているのであるが、もちろん、その標的はいまだ定まっていない。こういう場合に考えうることは、恐らく、そうした標的となる事象が地下においては繋がっており、全体像の把握をしてはじめて個的な事象にまで戻ってくることができるといった類の性質を持っているということであろう。

そのようなわけで、まったく予想だにできない言及行為を踏み出すわけである。こうした行為が快いはずはない。しかし、こうした行為こそものを書くということの意味する正確なところであることを思えば、またも俺はタンパク質を費やし、百戦百敗の行為を繰り返すわけだ。


■「個」の手触り

この国における最も確信犯的小説家である保坂和志は、哲学・科学・芸術が社会的価値観や日常的思考様式を包括すると述べる。一時期流行った「周縁」論ではないが、日常的世界(ステレオタイプと一般論の海)から遠心化する力を持つこれら三者こそが日常的世界を更新していく力を持ち、日常的な美意識や論理のあり方を作り出していくと述べるのである。

言うまでもなく「小説=novel」とは「新奇」であり、保坂はこの点おいて最も確信犯であるということができる。

さて、こうした観点から保坂は、小説において「個」というものに重きを置く。いや、「個」こそ小説たらしめる要素だとまで述べている。「個」は「社会化」と対比される。つまり、保坂にとって小説とは、「社会化」と反対の機制を持つものなのである。


■「議会」とは何か

社会化においては共通の言語が必要になる。その言語がデリバレーション(討議/熟慮)によって磨かれ、われわれはそれによって真理に至ることができるという「擬制」を多かれ少なかれ信じている(そうでなければ、言葉は必要なくなってしまう)。

言語共同体としてこの地域を捉えた場合、もっともその「擬制」を受け入れている場所が「議会」であり、それは「代議制」というシステムによって表象されている。つまるところ、「議会」とは「社会的擬制」の消費の地であり、生産工場である。


■阿部和重の跳躍

現在小説家阿部和重は『ABC戦争』において「跳躍」をしてみせる。それは読み手にさまざまなタンパク質の消費を起こさせ、ここにいる読み手には現代民主主義の代表の不在を吐き気を催させるように思い起こさせた。

<Y>という文字が「跳躍」し、文字としての<Y>を超えて、女性の下腹部的記号や「猥談」という音から連想されるアイデンティティを受け入れて<Y>に回帰してくる。その運動=跳躍において、自己同一性を失い、複数の自己を受け入れ、もはや以前とは違った<Y>となる。

阿部の小説の冒頭はこうした「跳躍」の運動を説明することから始まる。阿部はこれを「<Y>の悲劇」と呼ぶが、『ABC戦争』それ自体は更なる悲劇であり、<Y>といった踏み台的記号の無いところから語り始められ、どこへも行き着くことが無い。読み手は大いなる悲劇を感じずにはいられまい。


■日常という悲劇

「政治的言語」が跳躍し、その空中浮遊時間と例えることもできる「理性的討論」が行われる。
静的な「議会」。静的な「社会的価値観」。静的な「日常的思考様式」。
多くは、自らの自己同一性を忘れ、複数の自己を受け入れながら、グロテスクな形態で「議会=代表制」という「記号」を再生産する。
こうして考えるとき、阿部の小説よりももっと悲劇的出来事がわれわれを取り巻く場で行われていることに目がいく。


■「意味されない言語体系」と「代表されない代議制」

阿部のいやらしさは、『ABC戦争』の最後において、足場のない跳躍を「小説」という「擬制」の再生産に用いていることだ。

これはまったくもって、大衆化社会の代議制をパロっている。あるいは、インターネットをパロっている。あるいは、「靖国」をパロっている。あるいは、マスメディアをパロっている。あるいは、学校をパロっている。あるいは、病院をパロっている。あるいは、監獄をパロっている。あるいは、国家をパロっている。あるいは・・・

このようにして、パロディという「擬制」を消費し再生産する。


■<身体的>言語を取り戻せ

俺ももう少しで、着地点の無いままこの文章を終わらせるという欲求に負けてしまうところであった。このように現代の病は深い。

自分だけの「経験宇宙」から生じる<身体的>言語だけが、こうした消費・再生産を飼いならすことができる(さらなる複雑な「擬制」への踏み込みかもしれないが)。

自らの地点から「個」を求め、<身体的>言語を公的言説空間へと送る。それをして、はじめて理性的討論が着地点を持つものとなる。

結局のところ、フィクションへと息吹を吹き込むとは、これ以外に考えられない。残念ながら。


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Last updated  2005.10.25 03:57:14
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