|
カテゴリ:政治あるいは自由論
一昨日の「アリジャンを知っていますか」を読み、ご署名くださった方々、ありがとうございます。私としては、何よりも、多くの方に、こうした現状を知って頂きたいという思いでいっぱいです。まだまだ署名活動は続いています。できれば、ぜひアリジャン応援サイト(こちら)をよくご覧頂き、『母さん、ぼくは生きてます』を読んで頂いて、ご判断ください。この社会で私たちは知らないことがたくさんあります。知らないことは仕方が無いことだとも思います。でも、知らないことに目を閉ざす態度は改めたいと考える一人として、訴えたいというわけです。
■本題です。 かつて、アリジャンの『母さん、ぼくは生きてます』を読んで衝撃を受けたのは、この国の入管の「人を人として扱わない」仕組みだった。この国(民主主義国!)に生きている者として、その実態を知らなかったことに憤り大いに恥じた。タリバンから逃れ、将来祖国を豊かにできるようにと希望に燃え勉強しようと志を持ってきた青年を、自殺に追いやるまでに扱った「法の支配」の国の実態だった。まさにこうした<国境>における出来事の研究成果が、例えばテッサ・モーリス=スズキ等によって明らかにされているが、この本は、そうした研究者の論文に引けを取らない力があった。 祖国の「復興」に希望を燃やす青年をそのように扱っているのが、イラクの「復興支援」を手伝っている国家なのである。皮肉にしか見えまい。この二つを並べてみると、ある真実に気付くように思う。国際貢献や世界平和というとき、この国ができることはなんなのか。これである。自衛隊を使った「復興」はやろうとしながら、祖国を思う青年に少しの助力もできない国が、なんの国際貢献をしようというのか。「復興」という大義名分が建前であると疑われても仕方あるまい。 その一方で、現在、フジモリペルー元大統領への対応において、日本政府はペルー政府と結構な事態に陥っている。ペルー側の大使の召還にまで発展する事柄を、この国の政府はどのような考えで行ったのであろうか。ここは、「Fixing A Hole」さんの「脚注」が参考になる。記事を読まれればわかると思うが、日和見というか、非一貫性とはこのことだと言いたくもなる対応であろう。それぞれの判断が、状況を見た判断だと言い逃れすることも可能だろう。しかしながら、その判断はどのような哲学に基いているのか(つまりどのような観点からの判断か)を説明する責任が民主主義国の政府にはあるはずだ。 日本という国の政府の対応は、この二者に対して明らかに異なる。一方は、日本国籍を保持しているとはいえ、自身が大統領にまでなった国が身柄引渡を求めている事例であり、もう一方は、災難に追われ、「平和の国」に希望を持って逃げて来た一青年の事例である。しかし、共通点こそ重要かもしれない。日本政府が、元大統領の日本国籍を認めるに至った経緯も不透明だし、現在入国管理国というところで起こっていることも不透明だ。つまりは、「法」の光の届かないところで為されていることが共通している。 テッサ・モーリス=スズキに倣って言えば、今こそ、われわれ「主権者」が、それぞれのところから「民主主義」を考える必要がある。国の端っこの<国境>である「入管」(アリジャンが虐げられていた)や、政府に強いコネを持つ作家夫婦宅(フジモリが匿われていた)は、法の支配の外側に置かれた「治外法権」になっている。もし政治権力がなければ、強者は益々隆盛し、弱者は虐げられ、人として顧みられることはない。われわれは、権力行使の正統性を保持する者として、こうしたことを知り、あるいは、知るように努める必要があるのではないだろうか。確かに微力ではある、だが、無力ではない。できることを希望を持ってはじめたい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2005.11.16 02:43:21
コメント(0) | コメントを書く
[政治あるいは自由論] カテゴリの最新記事
|