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カテゴリ:政治あるいは自由論
ちょっと前に、「Fixing A Hole」さんが「Keeping chin up」という記事で、『世界』6月号掲載の樋口陽一先生の「「国」とは?「愛する」とは?」を取り上げられていた。俺もたまたま目を通していたので、ちょっと関連したことを書こうと思う。
■「当然」という感覚こそ怖い 樋口先生は、そこで、「愛国心」というものの対象についても書かれていた。例のごとく手元にないので(そして、例のごとく、うろ覚え)、適当な紹介になってしまうがご海容を。 郷土や風土を愛する心というものを、憲法に規定しようとするのは、そもそも憲法というものをわかっていないからに他ならない、というようなことを言われていた。 個人の尊厳を保障するはずの憲法が、個人の心の内面の問題にまで踏み込むというのは、ちょっと考えればおかしいことくらい誰でも気付くはずだ。そして、これは教育基本法におていも同様であろう。 「Fixing A Hole」さんも触れられていたが、樋口先生は、例のごとくエトノス(文化的共同体としての国民概念)とデモス(契約的国家形成者としての国民概念)に言及される。 この国はエトノスとしての国民概念を残したまま近代化しちゃったため、そういうところが曖昧に残ったままだという指摘は、非常にうなづける。つまり、デモスとしての国民というものを想定するのが近代であり、そこでは、自由な個人が基礎となって国家を形作っているという擬制を受け入れているわけで、われわれが現在支持するところの権利は、この想定からしか出てこないはずだ。それなのに、その契約国家を構成するはずの個人に対して、風土や郷土などの「嗜好物」を愛せというのは、論理的に転倒してしまっているのは言うまでもない。前近代に戻れと、近代の憲法が命令するわけである。これはおかしい。 樋口先生は、(あるべき)愛国心として、ハーバーマスの「憲法愛国主義」に言及される。つまり、デモス(契約当事者)としてのわれわれは、この契約の結果の国制=憲法(Constitution)への愛国心は持てるというのである。 俺としては、この「愛憲法心」なら受け入れられる。「個人の尊厳を守る国だから愛する」これでダメですか?(ちなみに、ドイツにおけるこの「憲法愛国主義」の導出議論過程へのリファレンスが大変興味深かったので、その部分だけでも「立ち読み」をお勧めします。) 郷土を愛せとか、風土を愛せなんていうのは、本当にグロテスクだ。だいたいにおいて、これを主張する人たちは、自分が愛せるから「愛せ」といっているだけのはずだ。近代国家に、そのような「俺も愛するんだからお前も愛せ」という論理を入れること自体、大変おかしなことではなかろうか。そもそも、そうした主張をする人たちは、<他者>の存在に注意を払っていない。 俺は、「帰属意識は当然だ」という言葉によって捨象される<他者>がおり、マイノリティとして抑圧されることになる可能性に目を瞑るべきではないと思う。そうしたことが「当然だ」というのは、あまりにナイーブであるように思える。(ちなみに、近代国家の外形を見せながら、文化や血に頼った国民を作り出したのはナチスだった。) まずは、自分が「当然」と感じてしまうことが、どのように構成されてきたのかを吟味する姿勢が大切ではなかろうか。われわれは「自分」という桎梏につながれていて、現代思想において多くの指摘があるように、「自分」というものに対して最も奴隷的である可能性があろう。 「当然」と感じることが最も<他者>を抑圧する可能性があるのである。俺は「愛郷土心」よりも、そのことに自覚的な「愛憲法心」の方に賛成する。 ※モンテスキューの「愛国心」についても書こうと思ったが、次回に回す。 ※これを書き終えたあと、日課として他のブログを回っていたら、激高老人氏が似たような問題意識で書かれていたので、紹介しておく。こちら。「当然」派の方々はご参照あれ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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