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カテゴリ:政治あるいは自由論
おわかりのこととは思うが、私は村上春樹に好意的だ。一時期、すこしつまらない作品シリーズが連発されていると感じたことも無かったわけではないのだが、紆余曲折のうえ至ったのであろう現在の村上春樹を総体として評価している。
■村上の作品は文体が無いのか 多くの村上批判者たちの言に、村上の文体にはコンテクストや風土がないといったものがある。柄谷行人や松浦寿輝などの批判がこれにあたる。おそらく、蓮見重彦なども同様の見解なのだろう。 コンテクストが文学性の用件であるのかどうかはさておき、村上は私にとっては夏目漱石と類似した作家だと思える。第一に、「先進国」の「最先端」の「文学」の影響を専ら受けていること。第二に、「伝統」との断絶があること。第三に、「伝統」を知らないわけではなく意識的に決別していること(同時に「先進国」の「文学」からも意識的に決別しているようにも思える)。第四に、大衆に受けていること。 村上の文体をとやかく言う人間は、ヴォネガットを読んだことがないだけなのではないかと私は疑う。彼の文体は初期ヴォネガットによく似ているし、初期のフィッツジェラルドの雰囲気にそっくりだ。村上の文体をとやかく言うためには、それが村上固有のものである必要があろうが、残念ながらそうはいかない。そしてさらに重要なことに、これは夏目漱石がイギリス文学から多大な影響を受け、独自の文体を「作った」ことと類似していることだろう。『猫伝』についてはさておき、漱石の重要な作品は、それまでのこの列島における文体からすれば、大きくかけ離れたものであることは今さら指摘するまでもない。 もちろん、しかし、漱石が「伝統」を知らなかったわけではない。彼の漢詩の才能については周知のことである。では、村上はどうか。「日本文学」を知らないのか。村上がプリンストン大学で、「第三の新人」を講じたことも周知のはずである。村上も漱石も「伝統」を知らないわけではなく、意識してそれとは異なる方向を目指していると考えるべきではないか。 以上のことで、村上を批判する人たちを反批判できたなどとは私も思ってはいない。ただ、村上を批判する人間の中に、漱石を評価する人間が多いのはどうしてだろうか、と思ってしまうのである。そして、村上に対する批判は、そのまま漱石には当たらないのか、と思ってしまうのである。いうまでもなく、漱石に文体があるならば、村上にも文体があることになる。私はこの対偶命題を真と捉えたいのである。 大変に軽い、申し訳ない言い方なのだが、漱石が画期となった「伝統」があり、村上が画期となった「伝統」がある。「伝統」に寄生するものたちが、あたらしい「伝統」にある種の嫉妬心を抱いているように思えてならない。 ■村上の作品はマンガか 村上の作品をマンガとの類似として捉える見解も多く見られる。これはどの要素が似ているのかについての論じ方は様々であるため、一概には肯定も否定もできないが、マンガと似ているというからには、多種多様に存在するマンガに共通する要素があるという立ち位置に立っているのだろう。 では、マンガとは何か? …わからない。 申し訳ないが、わからない。マンガは多種多様すぎる。小説と呼ばれるものたちの多様性と同じくらい多種多様だ。それをひとくくりにマンガというジャンルで呼べるほど、私は蛮勇をふるえない。 いや、まちがっていた。要素なんて考えるから悪いのだろう。機能としてのマンガに注目しようか。 マンガとは、視覚情報を加えた情報伝達ツールである。と言ってはダメか。 そこから無理やり、マンガというものの要素を搾り出せば、「読みやすい」ということになろうか。その意味において、村上の作品がマンガと類似性を持つのだとすれば、村上がヴォネガットを真似た理由と一致するわけで、確かに当たっている。 これは何も言っていないに等しい。だが、私は意外にこのポイントは重要ではないかと思う。グーテンベルク以後の近代において、情報伝達のコストは圧倒的に文字で行うのが安くなった。世界の距離を一気に縮めたのは間違いない。そこでの重要なポイントは、発信のコストが安くなったことに尽きる。受信者の方は、聞くよりも読む方が理解に要するコストが高くなっただろう。だが、発信者のコストは圧倒的に安くなったため、この世に大きな変革をもたらした。そして、教育に「読めるようになる」ことが加えられたのも、それに応じたことであることは言うまでもないだろう。 この観点から、マンガを考えたらどうか。マンガは、文字と比して、圧倒的に読み手のコストが安い。だが、圧倒的に発信側のコストは高くなってしまう。20世紀は、そのコストバランスからくる総コストが、いまだ文字に敵わなかった時代だと言えよう。だが、21世紀の情報環境においては、もしかすると、マンガの逆転があるかもしれない。会議資料や、政府のプレゼンテーション、あるいは、学者の論文において、「わかりやすさ」が最重視され、マンガが文字に取って代わるかもしれない。 〔まとめるとこう〕 受け取りのコスト 発信のコスト 伝達のコスト 総コスト 口頭情報 ○ ○ × △ 文字情報 △ △ ◎ ○ 視覚情報 ◎ ×→○? ×→○? △→◎? それが良いことなのかどうかは、はっきり言ってわからないのだが、この観点は、文字情報なるものが、近代という一時代的遺物である可能性をあぶり出してくれはしまいか。 もし、そうであれば、村上の作品のマンガとの類似性――わかりやすい(理解できるかどうかはともかく)――が、新たな時代の門を叩いている可能性は否定できないように思う。 ■マンガ ところで、私はマンガも読むのだが、マンガに文学性が無いとはとても思えない。もちろん、文学性があるものも無いものもあるというのが正しい。それは、小説と呼ばれるものたちとて同じことだろう。 そのうえで、現在において、小説にマンガが勝っている点を挙げれば、「日常性」ということに尽きるように思う。マンガの方が、圧倒的にアクチュアリティを持っているし、リアリティを持っているように思える。 残念ながら、小説にはマンガに敵うだけの「日常性」がない。大きな問題関心を持った小説はたまにあるが、あれだけ多く出版されていながら、この「日常性」を扱っているものは少なく、秀作と呼べるものになると皆無に等しい(時代物の中に現代のアクチュアリティを持ち込んだものはあるが)。現代に生きる「個人の生活」を描く小説に出会えないのは悲しいことだ。マンガにはそれがある。 そして、その点において、村上は少しだけ見込みがある。 ■風土ふたたび テクスト論の観点を持ち込めば、村上のテクストはある種のコンテクストの結節点に位置しているわけで、その由来を「風土」なるものに求めるべきだと考えるのは、ただの思い込みに過ぎないのではないかとも思える。 というのも、村上は多くの作品から影響を受け、土地を超えたある種の<風土>に根ざしている作品を書き上げていることは間違いないように思えるからだ。 村上の批判者たちは、村上の小説を好んで読む人間たちが、まるで詐欺にあっているかのように言うが、そこにはもう少し深い理由があると私には思える。 以前から幾度か指摘してきたように、村上は、この時代の作家の中でも、最もはっきりと小説家(それに文句があるなら、物語作家)としての役割を自覚している。そして、そうした高踏な文章を書く批判者たちよりも、読み手の「生」に変化を与えることを達成してきた。多くのファンをつくってきた。全員がファンになるわけではないが、はっきりとファンを宣言する人間は間違いなく多い。 結局のところ、村上の文章には「風土」は無いのかもしれないが、現代人が十分に共感できるだけの<風土>があるのだと思える。 ■デモスとしてのわれわれ 近代という時代に生きるわれわれは、建前上、デモス=市民として、近代コンスティテューションのもと生活している。それは、「風土」に根ざしたエトノスとしてではなく、デモス的個人として社会契約に参加している。参加するがゆえに国民なのだと言うこともできよう。 そうであれば、村上の「風土」無き「文体」は、前近代的批判者たちの批判を超えて、真に<近代>的な作品だと言えなくはないだろうか。デモスとしてのわれわれのエートス=倫理=<風土>に最も適したものだとは言えないだろうか。 残念なことながら、こうした近代の前提は、おそらく、いつまでも古いエトノスから挑戦されつづけるだろう。 だが、そこにこそ、今なお夏目漱石が読まれている理由があるし、村上春樹がこれからも読まれ続けるだろう理由があるように私には思える。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.07.10 19:20:09
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