サルには、過ぎた玩具だった、んじゃない?
そうとう、むかし、に 水曜スペシャル「川口浩探検隊」シリーズなんてモノが在った。 あたしは ちっちゃな、ガキだった、ので 最初ん頃は 「わあっ!」って、すこおし、驚いて。 けれど 木々の枝から 尻尾を先に落ちてくる、毒蛇、とか ジャングルに入る前と、出て来た時の制服が、全く同じで、微塵も汚れてない、とか。 挙句 「前人未踏」の地に、「人喰い」虎を見た!って? 日本語として・・・在り得ない、から。 そー云う頃から ちょっと胡散臭い、つーか、絶対にオカシイ!って 番組の粗探し、をするよーになった。 たぶん 番組制作者も、おんなじ、で 殊更に リアルさ、を追求する、んじゃなく より大業に、馬鹿馬鹿しい番組制作に力を入れる。 まあ 制作者と視聴者の、「間違い探しゲーム」の様を呈するよーになった。 それは ヤラセとか、ステルス・マーケティングとか、じゃなく 予定調和を前提とした、秀逸なパロディだった、んだろう。 「料理の鉄人」シリーズも、おんなじ、で そもそも 料理なんてモノは、極言すれば、個々人の趣味に収束する。 幾ら ミシュランの三ツ星レストラン、たって 所詮 仏国人の味覚に沿った評価で あたしら日本人にゃ、クドくって、然程、美味いとは思わない、んだろう。 ならば 料理が上手い達人、は居たとしても、その料理を、万人が美味いと感じる訳がない。 だから 北大路魯山人の最後の弟子?ってお爺ちゃん、を審査委員長にして 仰々しい番組の作り、で笑わせてくれた。 これも 明らかに、パロディの一種、に違いない。 「川口浩探検隊」シリーズ、は 作り物の角(つの)を付けたニシキヘビを出した時。 巨大な 這いずった痕跡とか、大きな波紋・影なら、まだしも。 偽物を、はっきり画面に映す、のは 流石に、禁じ手だろう、と感じて、見なくなった。 「料理の鉄人」シリーズは 視聴者からの抗議って 審査員毎の評価を点数化して、勝者を決定するスタイルになった時。 我が同胞は パロディすら理解できんのか、と情けなく感じて、見るのを止めた。 それから、かな? TVで、ヤラセとか、が すっごく、問題視されるよーになっちゃた、のは。 けれど TVに、真実を求める方が、如何かしてる、と思うのだ、が。 何か 最近の、ネット配信記事と、そのコメント、「つぶやき」なんか、に かつての 「川口浩探検隊」や「料理の鉄人」を感じてしまう。 実際 一部に、とっても残念な方が居る、のも事実なんだろーけど。 過半は 抗議も評価の一つ、いや、アクセス数を増やす為に、敢えて問題が在る書き方をしてる。 そして コメント者も、「料理の鉄人」で、勝者決定方法が曖昧だ。 なんて ケチを付ける視聴者みたく、釣り記事、に見事に嵌ってる。 これも 予め用意された予定調和に収束する、なら 昔のTVと、微塵も変わらん、けれど。 ただ その予定調和が、自嘲に向かうパロディだ、と判って居る、なら良いんだ、が 如何も ベクトルが、胡散臭い「正義感」に向かってる。 今更 TVやネットのステマなんて言う心算はない、けど 偽善に満ちたステマには、厳格な抗議を パロディには、ユーモアで、返す。 今の社会の最大の問題は 何も、既得利権や政権の愚かさ、じゃない。 偽善を偽善と見抜けない 素人発信者、や素人コメント者、の たった一つだけを「正義」と信ずる、狭隘さ。 それが より、社会の閉塞感を増している、って感じる、のだが。 視聴者が怖く、って 判りきった報道しか出来ないTV局、大新聞。 アクセス数が欲しく、って 極論しか発信せず、予想の範疇でしかコメント出来ない、ネット社会。 ネット社会の拡充に伴い 情報が多様化した、なんて冗談じゃない。 サルには、過ぎた玩具だった、んじゃない?