共有。
小さな頃から、俺は独り占めという事が嫌いだった。誰かが欲しがっていたら、駄菓子でも何でも確実に分け合っていた。格好をつけている訳でも何でもなくて、自分だけが良い思いをしている状況を、心から嫌っていた。何か誰か一人だけしか貰えない状況になると、俺は確実におりていた。それは引っ込み思案なんかではなくて、率先しておりた。誰かが得られないという悲しみを味わっているというのを、得た自分から見るのが耐えられなかったからだ。それはどれだけ真剣に欲していたものでも、喜んで諦められるくらいに。子供の頃、たまに誰かが言い出して始まる、「仲間はずれみーつけた」という、仲間の中の一人だけ違うところを指摘する遊びを、心の底から嫌っていた。いくら全員が笑って楽しんでいたとしても、俺だけが楽しめなかった。笑顔にもなれなかった。根本的にどんな事でも共有というのが、とても好きだ。格好良くは無い。そのせいのデメリットはある。相手は要らないものでも、半分強要してしまう状況が、多々ある。それは相手の本来の気持ちを思うゆえの行動では無く、あくまでも俺の中にある共有の精神による行動だからだ。その感情は現在も確実に息づいていて、どんな些細なメールでも、基本的には友達全員に送っている。こりゃ迷惑かな、なんて思いながらも。食卓に自分だけにしか無い食材があると、確実に「一口食べてみて」と、周りに勧めている。嘘がとても下手だ。ついてもすぐに見破られる。本当に解らないように嘘をつくことも、それなりに知能があるんだから可能だし、本当に喋っちゃいけない事は、いくらこんな俺でも誰にも見破られる事は無い。さすがにその辺りは解っている。あくまでも自分の事に関する事なら、という事ね。なぜかと問われると「嘘をついている俺」というのを、心のどこかで共有したいという心理が働いて、無意識のうちに何かどこかに痕跡を残してしまい、すぐに見破られるんだと思う。その点をよしはすごく理解している。だから嘘をついても本当の事を言ってなどとその場で問いつめたりはしない。ほとぼりが冷めた頃、「あの時嘘ついていたね」と、きちんと「嘘をついている俺」を守り、そして共有してくれている。俺が一口食べてと勧めると、本当に嫌いな食材では無い限り、たとえお腹いっぱいでも黙って一口食べてくれる。どれだけうっとうしい細かな話でも、真剣に聞いてくれる。記憶に残してくれている。あぁ、こいつよく解ってるなぁ、と思う。いきなりとんでもなく小さな事を言い出したのは、このことは俺を明確に表しているなと思ったからだ。このことは根本的な俺の全てにつながる精神だと思う。多分大袈裟でも何でもなく、このことを理解してくれているから、よしと一緒になったんだろうな、なんて思っているんだ、最近。