磯永彦助・・ちょっとしつこく
サンタローザに落ち着いたハリスと磯永はブドウ園を開きました。磯永はハリスの清潔で高格な人柄に傾倒して行きました。ハリスもまた若い日本の若者に惹かれて行ったのだと思います。米人牧師ドクトル・ハリス(トマス・レーク・ハリス)にはひとりの妹がいました。兄は彼女に磯永との結婚を勧めたのです。彼女は兄の強制に死をもって抗議しました。自殺してしまったのです。磯永のことを好きではなかったのです。彼は打ちのめされ長い沈痛の日々を送りました。ハリスの死後ブドウ園を引き継いだ磯永は周囲20kmの大ブドウ園の開拓に成功しました。300人を使用して彼が製造した「サクセス・ワイン」はヨーロッパや東洋にも輸出され大正時代の日本にも積み出されて行ったのです。ファウンテン・グローブ・ワイナリーが彼のワイナリーです。薩摩からの留学生たちは全てが変名・仮名を使って生活していました。密出国密入国だったからです。日本は鎖国をしていたからです。彼の名前は「長沢鼎」とされました。薩摩藩がつけてくれた変名です。磯永彦助は高麗町で生まれました。鹿児島県立甲南高校の正門のすぐ近くです。甲南福祉会館の敷地内に彼の生誕の地の碑が立っています。私が小学校の頃に通った私塾のすぐ近くでした。中学や高校の頃ふらふらと歩いたあたりでした。町には懐かしい雰囲気がありました。ほんの少し師走の慌ただしさもありました。私はちょこっと逃げ出して彼の生誕の地を眺めに行ったのです。今日見に行ったのです。磯永彦助は明治の末と大正12年に一時帰省ははたしました。けれども彼は亡くなるまでこの長沢鼎の名前を使用していました。留学生として藩からもらった名前だったからです。心は14歳で旅だったままだったのです。彼は昭和9年3月81歳で亡くなっています。