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シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

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2013年01月28日
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カテゴリ:神秘体験空間
 私は、日刊ゲンダイしか新聞を読まないのだが、元プロ野球選手が、高校の野球部の監督になるのに対しての批評記事が載っていた。その批評記事の内容をかいつまんでいうと、部活の顧問は、部活だけを教えているのではない、というものだった。そこで、つい最近の体罰の問題と絡めて再考してみたい。

 野球はプロがあるので、野球をする子どものほとんどは、将来、プロ野球選手になることを夢みているだろう。しかし、なかには、ただ付き合い程度で、部活は学生時代だけにしたいという子どももいるだろう。

 また、一般的には、プロスポーツが確立している分野は少ないから、ほとんどの学校での部活は、勉学に支障をきたさない程度の活動である。全員が、学生時代のうちに頂点を目指しているわけではない。

 しかし、多くの部活の顧問は、本分の学業の成績や学生時代の恋愛等の経験よりも、部活を優先する傾向にあることは確かで、それは部活の成績で、顧問が評価されてしまう点にあるからだろう。だから、部活を優先しないと好成績があげられないこともあるのだろうが、評価法を変えることはできるはずである。

 スポーツ専門学校ならまだしも、普通の学校では、勉学を優先させることが前提となっている。個人的意見だが、勉学と部活の両立は不可能ではないが、非常に困難で、二兎得ようとする者は1兎も得ず、というようになりがちで、しかも若いうちに、そのような過酷さを課すのは慎むべきである。大抵、部活の練習後に、勉学はできないので、成績に響く。

 しかも巷で問題になっている体罰は、部活でのものだという。学生の本分を守る規則を破っての罰則なら、考慮の余地もあるが、部活動での体罰というのは、行き過ぎの感に堪えない。体罰というのは精神上のリスクが大きいので、された側がされるに足る理由を共有していなければ暴力になる。

 いつから、部活が学業よりも優先される時代になったのだろうか?

 通常の学校では、勉学で地域一、日本一を目指すべきで、部活動で一番を目指すのは、勉学でも上位ならわかるが、勉学が地域でそこそこであっては、本末転倒であっては、あまり褒められたものではなく、まず勉学を上位に上げることが先決と考えるべきである。

 だから、部活動の顧問は、部員の学業の成績を常に把握し、学業に支障をきたしたら、直ちに部活動を一端停止させるべきである。つまり、学生時代は、学業の向上に役立つのかどうかで、部活動を考えるべきである。その延長上に、心身の成熟上のケアがあるべきだ。

 上述のような意味で、例の新聞記事は批評していたのだろうか。だとしたら、部活以外に、部員の成績もみれる教員でないと勤まらない。

 つまり、主が学業、従が部活で、主従関係をはっきりさせるべきである。先輩後輩の上下の主従関係ではなく、若いうちは芽が出なくとも、成長の芽をつまない指導ができ、見守れる上下関係でないといけない。

 また、とかく若いうちは、一面的な価値観に洗脳されやすいので、1つの分野ばかりをやるのではなく、なるべく様々な経験や多様的価値観に触れることも重要視すべきである。経験を拡げる意味で部活をやるべきである。

 例えば、スポーツ先進国といわれる米国では、若いうちに、なるべく様々な競技やスポーツに親しむことを主眼とし、日本のように細かい技術的な指導はしないそうである。細かい指導をしてしまうと、コーチに依存的な選手になり、自分で考えることをしなくなる恐れもある。

 スポーツ先進国では、スポーツを楽しむことを主眼としている。このことはヨーロッパでも同じようだと聞く。スポーツの奴隷であってはならない。

 例えば、プロ野球でも、日米では大違いで、日本では、少しでもおかしいところがあると、コーチがフォームを改造するが、米国では、試合を重ねるうちに、自主的に取捨選択し、通用するように改造していくという。

 スポーツに限らず、教育全般において重要なのは、自分で考え、自分で行う自主性にある。つまり、欧米では、スポーツを楽しむことで、自主性を自然に身につけることを主眼としているようである。

 どうも、日本は、教えすぎの感があるようでならない。その分、自分の判断が、疎かになる。例えば、サッカー日本代表の外国人監督がよく口にするのが、日本人は自ら判断して動くことが苦手である、という意見である。

 つまり、コーチが幼い頃から教えすぎるためで、自分でノウハウを確立していないことを意味する。外国人選手も、日本人選手には、経験量が不足している、とよく口にする。一般的に、外国では、失敗を恐れずに挑戦する姿勢を尊ぶ。その勇気を称える。

 日本人はどこか未知の出来事に弱く、馴染みの環境でないと、力を発揮できないところがある。アウェーに脆い。どこか内弁慶である。そのくせ、負けることを極端に恐れる。

 しかし、負けることで、何が足りないのかがわかる。徳川家康は、戦国時代では負けてばかりいたが、最後に天下を取った。戦国時代、高い勝率を誇った武田信玄でも、ほどほどの勝ちを理想とした。つまり、少し負けることの重要性を説いた。勝ちすぎると人間は天狗になり、かえって身を滅ぼす素となる。

 スポーツに勝敗はつきものだが、勝てばよいというものではない。
  
 そもそも、オカルトによれば、スポーツは、心の表現であり、スポーツの目的は、人間の心の多様性、複雑性を理解することにある。人間の心を表現するのがスポーツなので、多くの人の心を感動にも導くことができる。

 つまり、スポーツは、心の4次元世界を、3次元物質世界に実現する道具、いわゆる言語の一種でもある。例えば、日本のスポーツには、日本人の性格が現われる。

 だから、一流の表現者ほど、多様的で、心の理解能力が優秀で、様々な技術の出し入れができ、学業もそれにあわせて向上していくはずである。スポーツを沢山経験すれば、どれが自分によいかも自主的に判断できる。

 なにより、一流の選手のプレーは洗練されていて、芸術的である。日頃の練習から、イメージや、その心の表現を意識できているからだろう。

 部活といっても、スポーツだけでなく、勿論、文化活動もあり、身体表現だけではないが、心の表現という意味では同じである。広く色々楽しむのか、狭く一分野を極めるのかは、本人の選択次第だが、強制的にやらせられるのなら、やらない方がよいのは、当たり前である。

 スポーツや部活を通じて、心の多様性を表出し、心の交流を図るのを理想とすべきではないだろうか?





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Last updated  2013年01月28日 15時38分33秒
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