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シュタイナーから読み解く神秘学入門

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2013年04月03日
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カテゴリ:軟弱日本を斬る!
 江戸時代の天皇の直轄領が2万石と少なかったため、ときの天皇の密勅による討幕が数回起こったが、幕府の公武合体政策により、その都度、鎮静化されてきたが、幕末には外国勢力の揺さぶりもあり、世直し運動から、一気に討幕に進んだことが、八切止夫作品集からわかる。

 江戸時代は、平和との基本認識がいまでは確立されているが、八切止夫作品集から、実際は、宗教闘争とも絡み、階級差別が酷かったのと、人身売買が行われていたことがわかる。

 なによりも、意外なのは、庶民のほとんどが貧困生活を余儀なくされたことにある。だからこそ、「勿体無い」という生活の知恵が生まれたともいえる。

 各藩が競い合って、攘夷を行ったのも、朝廷から征夷大将軍の宣下を受け、大藩になって、直轄領を増やし、藩経済を潤したいためともいえる。だから、水戸藩は、水戸国をつくろうとしたし、薩摩は薩摩国、長州は長門国をつくろうとした。

 さて、このような幕末の動きが伺えるものに、八切止夫氏の「新撰組意外史」という著作がある。それを読むと、従来の新撰組とは全く異なる実像がみえてくるので、内容の一端を紹介する。

 以下は「新撰組意外史」による。

 黒船来襲で、物騒になった世情に、町人は自衛のために剣術が流行する。剣術といっても、捕物を真似た護身術で、多くの道場は金儲けのために開かれたが、近藤勇の天然理心流の試誠館(通説では、「試衛館」)は、田舎剣法で無名なのと、近藤自身が、得体の知れない部落の出だったために人気がなく、門人は少なかったが、食客はいたので、食い扶持を探すのに苦労していたという。

 そこで、幕府が、攘夷の見せ掛けのための将軍の警護を募集したのに、近藤らは食い扶持をみつけるために応募し、採用され、先発隊として京に渡る。

 しかし、そのなかの清河らは、京都につくと、将軍の警護から、自らが征夷大将軍として、朝廷の警護に携わることを画策したと幕府に拡大解釈され、幕府から再び、江戸に戻され、事実上解散となるが、近藤らは食い扶持がなくなるので困る理由からと、芹沢鴨の水戸藩別働隊は、鵜殿鳩翁から諭され、水戸幕府をつくる朝廷工作が必要なために、京都に居残る。

 京都に居残った者たちで新撰組をつくることになり、孝明天皇の公武合体に対する信頼の篤い松平容保の配下になり、御所を警備することになる。芹沢鴨は、通説とは全く異なり、警護を真面目にこなしたという。新撰組の京都での専横が顕著になったのは、芹沢亡き後、近藤が局長になってからだという。

 芹沢が暗殺されたのは、薩摩による八月十八日の政変がおこり、長州が失脚したため、長州と親しい攘夷派の水戸浪士が、新撰組の警護に相応しくないという会津藩の拡大配慮が働き、会津家老から、土方に密かに暗殺命令が出たためで、当初、近藤は反対したが、会津藩から出る手当ての金銭に目が眩み、土方らが強行したそうだ。

 芹沢がいたときは、水戸藩から運営資金が支給されていたが、なくなったため、近藤らの新撰組は、恐喝で、補ったそうである。つまり、通説での芹沢の仕業は実は近藤たちの仕業だったそうだ。それも近藤が、反仏なので、京都の仏教勢力をイジメ抜いたという。壬生から西本願寺に移動したのも、仏教勢力への反逆だったという。山南は反対したので、惨殺されたという。

 京都での新撰組の専横が、京都市民の公儀体制への反発を招き、後の京都の反体制の雰囲気を醸し出すことにつながったそうである。 

 近藤は、孝明天皇の公武合体策下では、将軍に仕えることがそのまま天皇に仕えることになるので良かったが、孝明天皇が亡くなり、明治幼帝となり、薩長の討幕に流れが変わるにつれ、新撰組を含めて、京都での立場が危うくなった。なによりも、押しこみ強盗のようなことをしていたから、京都民に嫌われていたことが大きいそうだ。

 もし、芹沢が生きていたら、新撰組が賊軍に追い込まれることは避けられただろうが、自業自得という他はないだろう。

 面白いのは、芹沢は新撰組を辞めても、兄の道場を引き継ぐという生活の糧もあり、本人も望んでいた気配があったのに、近藤は新撰組でなければ生活できなかったという好対照な点にある。だから、通説とは異なり、近藤は、通説では芹沢がやったような押し込み強盗を、その反仏精神から行い、新撰組の活動資金にしていたそうである。

 もっとも近藤のような原住民系末裔の立場から考えれば、仏教徒は、原住民の捕虜を、農奴として搾取していた連中なので、神様に代わって、天罰を食らわしている気持ちにもなっていたのかもしれない。

 それは戦国時代に、信長が原住民系だけに楽市楽座を開かせ、逆に仏教徒には無理難題をふっかけ、金銭を略奪したのと同じともいえる。原住民系の信長にとっては、原住民を奴隷として使役した分を仏教徒から取り戻しただけと言うだろうし、だから比叡山焼き討ちもした。

 つまり、大陸からきた仏教徒の攘夷の夷とは、原住民のことで、逆に、原住民の攘夷の夷とは、仏教徒のことになる。だから、文字の上では、攘夷で同じだけど、夷が全く反対の意味になるから、通説では理解できない人間模様が明らかになる。

 だから、攘夷といっても、当時南蛮人といわれた外国人だけのことでなく、異教徒に対して、攘夷といっていることになる。日本の仏教は、中華思想と混合した思想と考えるとわかる。インド仏教とも異なり、北伝、南伝の違いよりも大きい。

 これと同じように、当時、国といっても、現在のような統一国家ではなく、地方の藩のことを意味していたから、誰が「国」といっているかで、国の意味が異なるわけで、また、地方の方言が誤って伝わって、八切止夫氏が述べているように、滅私奉公することが、「切腹」になる、というような間違いが生じていた。

 このような誤解などを明らかにしないかぎり、通俗史に洗脳されてしまうから恐ろしい。





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Last updated  2013年04月05日 11時11分52秒
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